自動車業界で三菱自動車工業は歴史が浅い。日本では新参者と云って良いだろう。もっとも自動車造りは三菱重工で始まったのだから、それを足せば歴史が短いと云っては失礼かも知れない。
そもそもWWⅡ直後のスクーター、シルバーピジョンで。一方でオート三輪みずしま号も製造。また米国カイザーフレイザー社のヘンリーJノックダウンなどで、自動車造り技術を着々と積み重ねたのである。
もっとも三菱製自動車というなら、歴史はグンとさかのぼり、三菱造船が大型の三菱A型を造ったのは17年=大正六年のこと。
さて戦後の三菱製乗用車は三菱500で始まり、コルト600、コルト1000、最終目的の総合自動車メーカーへの道を着実に歩み始める。
もちろんゴールは大型高級車だが、当時の日本では、クラウン、セドリック、グロリア級が大型最上級車。その市場を目標に三菱デボネアを開発する。で、軽自動車ミニカからのラインナップが完成して、一流自動車メーカーの形は整った。
待望のデボネア登場は64年(昭39)。GHQ=連合軍最高司令部の財閥解体令で分解した三社が合併、三菱重工が誕生した年だった。
初お目見えは63年の東京モーターショー。写真トップはその時のもの。素晴らしい姿が注目を浴びたのは、憧れのアメリカンスタイルだったこと、5ナンバーなのにライバル達より、一回りは大きく見える存在感だった。
全長4670x全幅1690x全高1465㎜。車重1330kg。その威風堂々の姿、どこかで見た、と思ったらコルト1000を思いだした。
それもそのはず、両車のデザインはH.S.ブレッツナー。元GMのデザイナーだから、姿がアメリカンなのも頷けようというもの。
フォードアセダンは勿論だが、前席ベンチシート六人乗りで、後席の抜群の広さには、クラウンもセドリックも兜を脱いだ。
自動車評論家として活躍した故望月修は個人的に親しかったが、三菱チームのファクトリードライバーと云うこともありデボネアのオーナーだったから、ちょいちょい乗せてもらったが、具合良く乗り心地も良い車だった。
2L・OHV105馬力で、直列六気筒はプリンス・グロリア、スカイラインGTに次ぎ、日本では二番目の登場だった。ウエッジ型燃焼室形状、ハイカムシャフトなど機構も斬新で、1:10という高い圧縮比も自慢の種だった。
前輪Wウイッシュボーン、後輪リーフリジッドアクスルはオーソドックスなサス構造だが、タンデムシリンダーで前後デュオサーボをいうブレーキシステムが国産車初登場だった。
デボネアは性能の良さとは裏腹に、人気が出なかった。しかし、巨大な三菱ファミリーの内需に支えられて生き長らえて、いつしか世間は“走るシーラカンス”と呼ぶようになっていた。
三菱重役の専用車になったシーラカンスは64年誕生。二代目にバトンタッチが86年だから、実に22年間という長寿命、という面では世界有数の記録保持車だ。ちなみに二代目は韓国現代自動車でライセンス生産、現在世界で活躍するヒュンダイ=現代自動車の基礎技術育成に役立つのである。