写真トップは、オースチンセブンでご満悦の本間誠二。年来の親友だ。日本自動車研究者ジャーナリスト会議=RJCの会員だから、恒例行事のRJCカー・オブ・ザ・イヤーの選考委員でもある。
本間さんは、JAF創設頃からのメンバーで、スポーツ委員、計時委員などを歴任、初期のレース界では欠くことの出来ない重鎮で、現SCCJと共に日本最古の自動車クラブ、日本ダットサンクラブ=NDCの会長だったこともある。
彼にはガキ大将の気があり、若者を集めてスピードバード・レーシングチームなる会を結成して、レースやジムカーナ、タイムトライアルに明け暮れていたこともある。
もっとも本間さんは車の記事も書くが、本業は自動車ジャーナリストではない。時計屋さんだ。が、そんじょそこらの時計屋さんではない。時計業界では知る人ぞ知る有名マイスターで、TV出演、雑誌新聞に寄稿と大活躍している。
時計修理調整に関しての腕前は日本最高。一流時計店やデパートが手こずり嫌がる高級時計やアンティーク時計が、たくさん彼の所にやってきて、元気を取り戻して持ち主の手元に帰って行く。
時には、19世紀や20世紀前半の超高級時計なども、彼の手に掛かればたちまち生き返る。部品が無いと、前時代的手回しの旋盤や工具を持っていて、新規に造ってしまうのだ。欠けた歯車など顕微鏡を見ながら溶接して、仕上げてしまうこともある。
クオーツ時代到来でひと頃不景気だったゼンマイ時計が復権して、彼の存在が大きくなるほどに、全国から宅配便で壊れた時計が集まってきて数百個も溜まる。見てると気の毒になるほどである。
本間さんは昭和5年生まれだから、私同様、戦前戦中、戦後を通過してきた人物だが、社会人になった頃の昭和30年前後の日本自動車界は、敗戦貧乏の国家にドルの備蓄が無いから新車輸入禁止で、金満家が乗る自家用車も中古車ばかりだった。
で、本間さんが最初に手に入れたのが写真のオースチンセブン1930年型。もちろん社会人一年生が買えるのだから、ボロさ加減も一流「買った翌日から35日間毎日故障・ギネスブック物」と云うのだからボロさ加減も並大抵ではない。
さて、オースチンは世紀の傑作で1922年生まれ。大衆車として一世風靡の人気者となり、フランス、ドイツ、アメリカで生産され、我が日産も提携するほどのモテモテ大衆車だったのである。
セブンにはセダンやフェートン、多くのバリエーションが生まれたが、彼のロードスターは、本来スポーティーでお洒落な車。水冷直列四気筒サイドバルブで747cc、13馬力で39年まで生産された。
もっとも世の中時代を経ると不満も出始めて、900ccに進化、それをビッグセブンと呼ぶ。私も乗ったことがあるが、ストロークが少ないコーンクラッチの扱いにくさは大変なものだった。
馴れるまでエンストの連続で発進できない。で、英国では“サドンデス・クラッチ”と呼ばれたほどに気むずかしい操作だった。
話変わって、WWⅡ以前の私が幼かった頃、どういうわけか医者に評判が良かったようだ。大森から麻布に引っ越したが、どちらも、看護婦連れて往診に来る先生はオースチンだった。
20世紀前半の日本医学はドイツ式で、カルテもドイツ語だったから、ドイツ留学の医者の自家用車はドイツ製というのが当然なのに、何故かオースチンが多いのが今もって不思議なのである。