ルマンの覇者マツダのレース活動

コラム・特集 車屋四六

1963年、鈴鹿の第一回日本グランプリの頃、自動車会社は、レースは一部愛好家の道楽で販売とは無縁と決めて「メーカー参加せず」の紳士協定をかわしていたが、大会終了後、対応が一転した。

で、不参加表示の日産に対しNDC東京の田原源一郎が「どうしてもフェアレディで出る」との決意表明で、米国日産の片山さんから届いたチューニングキットを仕方なく日産は組み込んだ。

GP当日、田原のフェアレディはポールポジションからトップのままゴール、優勝した。観客の興奮は勿論、TV中継も「フェアレディ」を連呼…電通の知人は「あの価値2億円」と。で、翌年の第二回GPは、ファクトリーマシンのオンパレードとなるが、乗り手が居ない。そこで各社打った手が、レース経験を持つ二輪ライダーのスカウトだった。

一方、第一回で紳士協定を守ったマツダは、キャロル600でスバル450、三菱500、パブリカに挑戦したが、三位入賞もままならず、パブリカに優勝をさらわれので、第二回には、360ccを30馬力に、600ccを45馬力にチューンナップし、ライダーは片山義美を中心のチームで戦ったが、スバル360とパブリカの後塵を拝した。

さて第三回GPは、JAFと鈴鹿とが折り合わず流れて、1年後に新装なった富士スピードウエイの開催となったが、既に軽自動車の時代ではなく、ファミリアで参加するも結果は出せず、その後暫くの間、マツダ車優勝の記録は見当たらない。

が、マツダは国内の不甲斐なさとは裏腹に、海外のレースに熱中していた。1966年から67年にかけては、ファミリア800やファミリアクーペで、マカオGPやシンガポールGPなど東南アジアを中心に活躍していた…当時のドライバーの顔ぶれは、片山義美、三保敬太郎、大橋孝至、片山正義、浅野剛男などだった。
 
 そうこうするうちに、マツダ伝家の宝刀ロータリーエンジンが完成すると、RE搭載のファミリアクーペ、カペラ、サバンナの活躍が始まり、武智俊憲、寺田陽次郎、岡本安弘などで陣容も充実する。

ロータリーエンジンで活躍したファミリアREクーペ

 東南アジアでの活動が一段落すると、マツダは戦場をヨーロッパに移すが、中心は片山義美で、66年、67年のマカオGP優勝の後は、RE搭載車でニュルブルクリンクやスパフランコルシャンなどの上位入賞で、実績を挙げていった。
 
 そして日本に帰ってきた片山が、72年の日本GPでホームランをカッ飛ばす…史上初の50連勝、連戦連勝で無敗を誇るスカイラインGT-RにREサバンナRXで土を付けたのである。その後暫くのあいだのRE車の活躍は御承知の通りである。

 マツダのレース活動で見逃せないのがREだが、その集大成がルマン24時間レース…日本のレースファン待望の優勝である。
 私はTV中継でスタートを見てから寝て、翌日TVを点けたら、いきなりマツダ787の場面で、暫く見ていたらそれがトップ映像だったのに仰天したが、そのままゴール、362周走った結果は4923.2㎞で、ルマン24時間レース日本初の栄冠をもたらしたのである。

日本人待望のルマン優勝のマツダ787B/4ローターターボ700馬力

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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