【車屋四六】すばらしいスポーツカーも時期尚早では

コラム・特集 車屋四六

ホンダS2000にも似たシルエットの、格好良いスポーツカーが登場したのは1959年。日本では、明治この方輸入品を舶来(はくらい)と呼んで珍重したが、この車は舶来ではない。

名前はミカサツーリング。ミカサの名は既に何回か登場しているので御記憶と思う。初め商用車のバンが登場して、翌年このロードスターが登場した。(写真右:岡村製作所のミカサの雑誌広告)

59年=昭和34年は、弁当箱のようなダットサンがブルーバードに変身した年で、第一回レコード大賞の年。水原弘が歌う“黒い花びら”永六輔作詞、中村八大作曲。受賞の連絡を受けた永と中村が「レコード大賞って何?」と云ったというエピソードを聞いた。

そんな時代に生まれたスポーツカーが、これだけのプロポーション。しかも自動変速機=ATを装備していたのだから驚きも二倍だ。ちなみに当時ATの通称はノークラッチ=ノークラだった。

今でこそスポーツカーにATで驚く人は居ないが、一部の高級アメ車を除き、乗用車も含めてほとんどがマニュアル変速機の時代だから、スポーツカーにATは突飛な組み合わせだった。

もう一つ注目すべきは、ミカサツーリングATは、日本初のオートマチック乗用車で、世界初小型AT車だったのだ。造ったのは、岡村製作所、自動車業界では聞き慣れない会社である。

が、別の業界では大企業。そうオカムラなら判るだろう、スチール家具、オフィス家具のトップメーカー。また日本初のトルクコンバーターメーカーだ。現在でも鉄道建設機械などの分野で活躍という長い歴史を誇るトルコンメーカーでもあるのだ。

というように、戦後オカムラがトルコン開発を始めたのは自動車用ではなく、米軍が持ち込んだディーゼル機関車のトルコンがヒントだったようだ。

オカムラのトルコンは、国鉄や産業機械分野で活躍することになるが、更に応用分野を模索したら、アメ車を中心にATの普及が始まり、将来有望と考えたようだ。

おそらくは自動車メーカーに売り込んだのだろうが、時期尚早と相手にされず、それなら自社で自動車も造ってしまえということになったのだろう。ちなみに、トヨタ開発のAT=トヨグライドがクラウンに搭載されるのは、60年10月。

初めてボンネットを開けた時、ふとこいつは見たことがあると思った。そう有名なシトロエン2CVのレイアウトに似ていたからだ。

先端にクーリングファンの空冷水平対向二気筒エンジン、加えて日本では未だ珍しい前輪駆動だった。ボアストローク=73×70㎜、OHV、585ccで57年登場のサービスカー(バン)の17馬力が、ツーリングでは19.5hp/4000rpmに向上、最高速度90km/hは当時としては満足できるスピードだった。

シトロエン2CVを参考にした水平対向二気筒+トルクコンバーターのエンジンルーム:ラジェーターの前方にクーリングファン

スタイルよし、性能もよし、しかもAT、今なら魅力的スポーツカーなのに、日本のドラバーは受け入れなかった。当時ひと握りの富裕ドライバー達は、自動車は舶来と思い込んでいたこと、また日本車からステップアップしようというユーザーに87万円という値段は高すぎたのである。

いずれにしても、売れ行き不振で銀行融資もままならなくなり、せっかくのスポーツカーも60年をもって生産中止となる。総生産台数は250台に満たなかったようだ。

親友だったSCCJ(日本スポーツカークラブ)の故佐藤健二「岡村の社長は大のスポーツカー好きでポルシェ356やベンツ300SLを運転手付きで乗っていたよ」と云っていた。

ミカサの開発は、帝国海軍の艦爆彗星、陸爆銀河、特攻機桜花の開発主任だった山名正夫。日本自動車産業の黎明期、ここにも航空技術者の足跡が残されている。著書に“最後の30秒”がある。札幌発ANAの東京湾墜落事故。事故調査団に参加の山名は綿密な調査から機体欠陥説を主張したが、操縦ミス説の主流派に抹殺され、辞任した後の著書だった。

「山名を生んだことは日本の誇りだが封殺したことは日本の恥である」と論評した専門家もいた。