【車屋四六】日本で始めてGTを名乗った車

コラム・特集 車屋四六

GTの語源は、伊語でグラン・ツーリスモ、英語ならグランドツーリング。などと説明すれば今更と叱られるかもしれないが、昭和30年代、GTが判る日本人は一握りだった。GT=快適ツーリングが出来る上等スポーツカーと思えばいいだろう。スポーツカーはスパルタンで乗り心地が悪いものだった。

さて、日本でGTの元祖ならスカイラインというだろうが、本物元祖はベレット。ベレットは、一見セダンだが、いすゞはスポーツカーを目標に開発したとOBが云っていた。当時の日本市場では純粋スポーツカーは売れない。ならばセダンの姿で造ろうということだったようだ。

1963年の全日本自動車ショーに登場したのが、ベレット1500GTで、翌年発売されたら1600GTになっていた。これがGTの日本初登場。僅かの差でスカイラインGTは二番手なのだ。

もう名誉毀損にはならないだろうから、50年近い昔のエピソードを紹介しよう。新型車ベレットGT発売直前、お定まりのトップ会議が開かれた。やがて議題のネーミング。

スポーティーモデルだから、GTは如何との担当者の提案に「聞いたこともない名だがそれは何だ」と、やおら重役が質問したそうだ。で「開発に寄与したジャンタケ=GTです」と担当者。常識に欠ける重役に腹を立てた担当者が、皮肉を込めて応酬したのである。

戦争中は大トラックメーカーのいすゞ、戦後ルーツと提携しヒルマンで乗用車造りを学習。さて純国産を企画した時「スポーツカー的性格付けを」と提案し、開発時に協力の竹田さんが大の麻雀好き。で、仲間内ではジャンタケが通称だったよう。

話変わって、鈴鹿サーキットが完成、第一回日本グランプリ開催が決まった時、いすゞは関心がなかった。が、いすゞの有力ディーラー、やまと自動車の竹田正隆/ジャンタケが積極参加を表明した。

彼は、新登場ベレルをチューンアップ、いすゞ製ヒルマンを英国製スポーツキットで武装、米空軍K.スイッシャー少佐とD.ソイヤー中尉、米人D.ニコルス、そしてSCCJの浅岡重輝を手当てした。

フィンランドで優勝のベレット:ラリーと云えば北欧。そのフィンランドで優勝したベレットの勇姿

残念ながら、初めてのグランプリは、各クラスを水面下で周到な準備をしたトヨタに掠われてしまったが、第二回では、ISCC(いすゞスポーツカークラブ)も誕生して、準備を整えた。

もちろん、主力はベレットGTだった。が、成績は芳しいものではなかったが、その後もベレットは戦闘力を増しながら、活躍を続けたのである。

その極地到達がベレットGTRで69年登場。アルミ合金ヘッドの美しいDOHCエンジン、現在でも中古車市場でマニアが注目するコレクターアイテムになっている。ちなみにベレットGTRの値段は116万円。通常のベレットGTが85万円だから、かなりな高額商品だった。

ベレットGTは、71年に1800GT になるが、これがベレットを名乗るGTの最後となった。

71年にいすゞはGMと資本提携して商品を整理、レース場を所せしと暴れ回ったベレットの名が市場から消えた。

ベレット1600GTR:戦闘的姿にバランスした戦闘力で一世風靡をしたサーキットの常連