昭和29年=1954年誕生のトヨエースは、日本小型トラック市場の革命児となる。正式には、トヨタSKB型トラック。この車の開発コンセプトは、小型トラック市場制覇だった。
昭和29年頃は、敗戦からの痛手から立ち直りを見せはじめ、電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機、いわゆる家電の三点セットが憧れの三種の神器という頃である。
若者はマンボに夢中で、マンボズボンに髪はリーゼント。映画館では“ゴジラ”、ラジオからは“お富さん”や江利チエミの“ウスクダラ”が流れていた。
SKBのコストダウンは徹底したもので、車体は平面構成、ドアは外に蝶番が突きだし、窓ガラスの上下は手動、三角窓も後ろ蝶番で前開き、手動の腕木型方向指示器は懐かしのアポロ型、等々。
気になるのは燃料タンクの容量。37、8ℓと中途半端だが、当時の容量単位はガロンで、ちょうど10ガロンだったのだ。
当時、日本の小型貨物車市場は三輪車全盛時代。ダイハツ、マツダ、三菱、オリエント=三井精機、ジャイアント=愛知工業、ホープ=ホープ自動車、くろがね=日本内燃機、ムサシ=三菱富士産業など、群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)していた。
オート三輪車は熟成期を経て、標準型ピックアップ型から多種多様に発展していた。ダンプカー、消防車、バキュームカー、ゴミ収集車等々、全長8メートル近いトレーラーまであった。
さて、SKBがトヨエースと呼ばれるようになったのは、56年から。増販の一手として知名度の向上を狙い、ペットネームの全国公募。集まった20数万通から選ばれたのがトヨタのエース=トヨエースだった。
SKBは豊田自動織機とトヨタ車体の合作で、発売価格の62万5000円は標的の三輪車より二割高で、月7000台の市場で20台しか売れなかった。
が、トヨタはへこたれなかった。で、打った手が当面の利益を無視しての7万2千円という大幅値下げ。加えて沢山売れればコストが下がると、トヨペット店新設で販売系列を二系統に増やした。
56年更に1万5000円値下げと追い打ちをかけるが、この時点の価格53万8000円は、オート三輪の値段とほぼ同レベルである。
SKBは売れはじめ、人気が人気を呼び、売れるほどにコストも下がり、57年更に4万3000円の値下げ。で、念願の50万円台を切ると一気に月販2000台を突破した。
こうしてトヨエースが成功すると、プリンスや日産もキャブオーバー型トラック市場に参入して攻勢をかけたから、さすがに一世風靡のオート三輪も、57年をピークに市場から消えていった。
歴史的に見れば、三輪市場に殴り込みをかけたトヨエースは、三輪の天敵だったことになり、トヨタ全生産量の3分の1を占めるようになってドル箱的存在となってトヨタを飛躍させる土台となった。
「機構簡単で故障が少ない・故障しても修理が簡単」と評判も良く、原動力S型エンジンの「国民車トヨエース搭載の経済エンジンは故障少なく耐久性抜群・1立で13粁」は自慢のCM.
ちなみにS型エンジンは、水冷直四サイドバルブ4サイクルで995cc、圧縮比6.7、30hp/4000rpm、6.2kg-m/2600rpm。(当時は未だpsではなくhp=ホースパワーの時代)。全長4237x全幅1675x全高1850㎜、ホイールベース2500㎜。定員2名。車重1130kg/積載量1000kg。タイヤ6.00×16-6P。最大速度70km/h。燃費13km/ℓ。