【車屋四六】紆余曲折・日本のルノーはジプシーの旅

コラム・特集 車屋四六

日本市場でのルノーは、浮き沈みの激しいブランドで、その輸入権はジプシーのような旅の連続だった。日産がルノーの資本で立ち直り、青い目の社長が来日して、今では日本のルノーも日産傘下。

ルノーは1899年創業という老舗で、WWⅡ以前はフランスで第3位、大型から小型までの総合メーカーだった。が、ドイツの占領下に会社の安泰を願うルイ・ルノー社長が、ドイツに協力したとの理由で戦後投獄され、主を失い、やがてドゴールの命令で国有化”ルノー公団”が誕生する。

さて、戦後の復興で誕生したのが、エンジンを後部に積んだ珍奇な超小型車、ルノー4CV(写真トップ:WWⅡ後の作品ルノー4CV:大ヒットで一時欧州のトップメーカーに。日野自動車でライセンス生産)。重役の大半が反対という4CV 、戦後の復興期には小型経済車、の決断は発売してみたら大当たり。

日野自動車がライセンス生産。が、フランスの廉価版大衆車も日本では高級車。裕福な家庭の自家用車で大活躍。昭和20、30年代を知る人なら有名な小型車。タクシーにった人も多いはず。実は”神風タクシー”なる言葉は、日野・ルノーが語源である。

我々オジンには懐かしい4CVの功労で、ルノーはいっときフランスのメーカーになる。一方日本では、日野・ルノーがコンテッサに進化すると、再び輸入に頼ることになる。

さて、日本市場でのルノーは、冒頭に述べたように浮草暮らし。始まりは1910年、水嶋商会が輸入権獲得。30年中外ルノーも。戦後60年代はタバカレラ商会(フランス系商社)正式にはタバカレラ・インターナショナル・インコーポレイテッド(千代田区三年町1-1・グロリアビル)。溜池から桜田門に向かう右側にあった。

その後、77年キャピタル企業、83年日英自動車、86年JAX、91年ヤナセがJAXを買収して93年フランスモータース設立。2000年ルノージャポン、06年日産トレーディングと、輸入権は転々と移転し、今日に至っている。

さて、モーターマガジンの依頼で、カラベルやR16の取材をしたことがある。写真(下)は、前方から、カラベルクーペ、ドーフィン、ルノー8と並んだ、タバカレラの本社ショールーム前。

戦後のルノーは、4CVを出発点にリヤエンジン/リヤドライブになり、写真のどれもがRRだ。カラベルは1108㏄55馬力で最高速度160キロ。ドーフィンは845㏄40馬力で130キロ。8マジョールが1108㏄50馬力で135キロ(65年頃のスペック)。

66年にはサニーやカローラが誕生するから、65年は日本の大衆車時代の幕が開く寸前だったことがわかる。が、フランスでは大衆車なのに、日本でのルノーはステイタスな車、庶民には手が届かぬ高嶺の花だった。

だが63年の日本グランプリ開催で火が点いたモータースポーツ熱で、趣味嗜好が強い高価な日本製高性能車の登場もこの頃。スカイラインGT、ベレットGT、シルビア、コンテッサクーペ、コンパーノスパイダー、トヨタ・スポーツ800、ホンダ・S600などである。

一方、輸入車の世界でも、従来のスポーツカーではなく、いわゆる羊の皮を被ったオオカミ、姿は普通だが、走ればスポーティーカーくそ喰らえというセダン達。フォード・コルチナロータス、フィアット・アバルト、ルノー・ゴーディーニなどが人気に。

例えばルノー8ゴーディーニを例にとれば、半球形燃焼室エンジンにソレックスキャブレター2連装して90馬力に、結果は最高速度が170キロに跳ね上がっていた。

こんな狼達は、鈴鹿、富士、船橋、各サーキットの常連となり、ファンを楽しませてくれたものだった。いずれにしても、4CV亡き後、ルノーが元気だったのは、60年代のこの頃だった。

1913年型ルノーDJ20/30CV(トヨタ博物館蔵):直4・3563㏄。全長4713㎜の見事なリムジン。戦前は高級車メーカー。WWⅡ前、淡谷のり子が愛用していた