片山豊よもやま話-2

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片山豊は、明治42年/1909年に静岡に生まれ、三井銀行勤務の父と共に移住した台湾でマラリアにかかり、埼玉県大地主の祖父に預けられ育った。その祖父は好奇心旺盛、新しもの好きだったようで、その影響か豊は物心つく頃には自動車やオートバイ、そんな物が大好きになっていた。

小学六年生の時、帰国した両親の元鎌倉に戻り、鎌倉第一小学校から湘南中学に進学し、校長の方針で身につけた英会話が後に役立つのだが、中学を卒業すると慶應義塾大学予科に進学。鎌倉から三田への汽車通学は楽しかったらしいが、ふと知った大阪商船の雑用係に応募、夏休みを利用して米国往復の船旅に出た。

生糸を運ぶ貨客船は到着地で生糸をおろし、一等船客をおろし、日本向け材木を積む間は閑がタップリで近郊を見物、米国を満喫して40日ほどで帰国した。

その後在学中に自動車部に入り運転免許も取得。この自動車部創設メンバーで東京月島木澤病院の御曹司…本稿に何度か登場する親友宮崎良樹の義父で、戦後満州から引揚げの美食家「此処は安くて美味しい」と連れて行かれたのが横浜中華街の海員閣だった。

昭和10年、慶大を卒業した片山さんは、予定通り日産に入社。当時片手間の閑職といわれた広告宣伝を担当するが、ここで持ち前の腕を振るい始めようという矢先に徴兵で近衛自動車隊に。が暫くすると将校に呼ばれ入院命令…乱視を理由に除隊兵役免除となる。オトツァンは何か腑に落ちなかったが、陰で鮎川が手を廻したのか?今でも疑問といっていた。

で、日産に復帰。昭和12年結婚で麻生から片山姓に。早速ダットサンで箱根や富士山麓を走ったのが新婚旅行だったそうだ。

仕事に復帰すると先ず女学校卒を募集しダットサンガールを組織した。WWⅡ以前の女学校とは両家の娘ばかり、卒業後就職などしないから、それだけでも話題になる。
片山さんは、小型車の販売対象は医者や弁護士だからと、教養と作法が身についた良家の娘を訪問販売担当にと考えたのだ。

一方で、水之江滝子、山田五十鈴、轟夕紀子、入江たか子、夏川静江など、当代一流のスターで宣伝ポスターを作ったり、新装なった浅草国際劇場の松竹歌劇団の人気レビューの舞台にダットサンを走らせるなど、奇想天外な手段を連発した。

が、このあたりについて「俺がやったと」とは聞いていないが、それでは誰がやったのかだが、こんな非常識とも思える手段をやってのけるとなると、オトッツァンしか考えつかないのだ。

松竹歌劇団:浅草国際劇場レビューの舞台に登場のダットサン/後席ソフト帽が男装の麗人と呼ばれた大スター水之江滝子。

いまになって聞いておくべきだったと思うのは、国策で創設の満州自動車勤務を命じられた片山さんは、満州が肌に合わず、暫くして東京事務所勤務になり満州を行ったり来たりの勤務になった。前述慶応自動車先輩の木沢さん、実は満州自動車社員なので、きっと片山さんと顔を合わせているはずだが、それを聞いてないのが今でも残念に思っている。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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