【車屋四六】BC戦争と呼ぶ名勝負

コラム・特集 車屋四六

千葉県船橋市若松町の埋め立て地に在った”船橋サーキット”は、1965年にオープンで67年にはクローズという、短命なサーキットだった。経営が不動産会社だから利益追求だったのだろう。

日本のモータースポーツ熱は鈴鹿サーキットからだが、東京近辺にも欲しいということで生まれたのが船橋サーキット。FISCOオープン前の関東のサーキットだから、毎週、熱のこもったレースが楽しめただけに、惜しまれるクローズだった。

レース界では世界的大御所、ピエロ・タルフィのコース設計は、基本的に小さな三角むすび型だが、組み合わせで、3.1キロ、2.4キロ、1.8キロ、そしてジムカーナコースと、変化に富んだ楽しいコース。また客席からほぼ全体が見渡せる楽しいコースでもあった。

写真トップは船橋サーキット。ブルーバードとコロナが並んでいる。が、この年式のコロナの相手は、ブルの410型なのに何故か一世代前の310型。モータースポーツ黎明期にあっては、一流レース以外は走れば何でも参加できるという、自動車クラブ主催の楽しいお手軽レースが沢山あったのだ。コロナの前に尻だけが顔を出すのが本来の宿敵ブル410型である。

一方日本の乗用車市場では、先発コロナの対抗馬ブルーバード310の登場が昭和34年。初戦はブルの圧勝で、対抗馬コロナが新型になっても合戦は続くので、BC戦争なる言葉が生まれた。いわば小型車市場の王者日産に挑んだ、トヨタの戦いだった。

そもそも日本の小型市場は、WWⅡ前からダットサンの天下で、それは戦後も続いていた。そしてソニーが世界初トランジスタラジオ発売の56年に登場のダットサン110型は、世界初人工衛星ソ連のスプートニクが飛んだ57年に210型へと進化は続く。

同年トヨタは、ダルマが愛称の初代コロナST10型を発表するが、こいつは時間稼ぎで、日産に王手を掛ける本命、RT20型を密かに開発中だった。だから初代は時間稼ぎの牽制球だったのだ。

必勝を期す2代目コロナの登場は、TVカラー放送開始の60年。が、必勝を期した2代目は不運で、仮想敵のダットサンは、市場には既になく、変わって王座に坐っていたのが、歴史的にも傑作といわれるブルーバード310型だったから、スタイリッシュな2代目といえども、戦いの結果は火を見るより明らかだった。

余勢を駆って日産は、63年、駄目押しの2代目ブル410型を発表。その市場には不評の2代目に代わった3代目コロナが居たが、既に初代ブル310型に押しされていた。が、コロナの3代目は強運の星のもとに生まれていた。

ブルーバード410型:NDC-Tokyo主催のラリー。チェックポイントが開通直前の横浜バイパス料金所

2代目ブルはコロナに駄目押しの打撃を与えるべく開発され、その隠し球がピニンファリナのイタリーデザイン。が、隠し球が裏目に出た。先進国ファリナの合理的デザインが、発展途上の日本ユーザーから思わぬ不評をかったのである。

で、3代目コロナRT40型の劣勢が一挙にくつがえり、念願の王座を手に入れる。が410は”技術の日産”の定評通り車自体は優秀で、レースやラリーでは活躍、海外でも好成績を収めるのである。

話替わって、都心に近い船橋サーキットが65年にオープン、最初の本格的レースが、7月18日開催の”全日本自動車クラブ選手権”。そのGTクラスの浮谷東次郎のホンダS600と、生澤徹のトヨタスポーツ800との名勝負は後の世までの語り草になっているが、そのT1クラスで、津々見友彦操縦のブルーバード410SSが優勝している。レースでのブルは強かった。

船橋では、このような本格的レースばかりでなく、アマチュアクラブの草レースも開催された。そのレースがJAF公認であっても、310型のように一世代前の車や、車検付きの車も沢山出てきて、雰囲気としてはこちらも大変面白かった。

ダットサン110型:女子学生東京軽井沢往復ラリーの復路スタート(軽井沢)。チェッカーフラッグを持つスタート要員の白馬姿が格好いいが今では見られない風景