【車屋四六】軽自動車メーカー生き残りの戦い

コラム・特集 車屋四六

62年の第九回全日本自動車ショーには専門家もビックリだった。各社から予想外なモデルが登場したからだ。というのも、60年代まで貿易面で優遇の自動車産業が、貿易自由化の政府方針転換で、各社が生き残りを賭けた結果だった。

貿易自由化に向け輸入外車に対する競争力強化目的で、既存メーカーをジャンル別に3グループ化するというもの。その法案は、64年に通産省が国会提出したが、不成立で無用の心配だったが。

1894年来日の英人J.コンドル設計で丸の内に完成の一丁倫敦。60年に三本和彦撮影時には解体中。手前角の三菱一号館は、平成21年に復元された

が、法案が通過して、もし3グループに入り損ねれば、新規メーカー進出を抑制という政策に対処するための布石で、予想外モデルのラッシュとなったのである。

特に慌てたのが軽メーカーのスズキ、ダイハツ、ホンダ。前回のショーに700㏄車を出品したマツダは落ち着いていた。いずれにしても、登録車が無ければ念願の小型市場進出の扉が閉ざされる。

で、迎えた第九回ショー、スズキはプロトタイプHUX(ハックス)を、三菱がコルト600、ダイハツコンパーノ、ホンダS500、そしてマツダが1000㏄車とキャロル600の出品となったのである。(写真トップ:登録車への仲間入り目的で緊急開発して自動車ショーに展示のスズキHUX)

それ以外にも、トヨタのパブリカスポーツやフェアレディー1500等も登場、観客の目を楽しませてくれた。そして第十回へと続くが、そこでHUXから成長したフロンテ800を今回取り上げてみよう。

が、後になり判ったことだが、フロンテ800がHUXの後継と思ったのは誤りだったよう。というのも、HUXは4サイクル700㏄の縦置き搭載のFF。が、800は二輪GPでは世界の王者スズキならではの三気筒2サイクル横置き搭載のFFになっていたからだ。

ちなみにB70xS68㎜、786㏄、41ps/4000rpm、7.8kg-m/3000rpm。フィアット500に似てエンジン後部のラジェーター設置が珍しい。全長3870x全幅1480㎜、最高速度120粁という性能。

HUXに似た部分はリアウインドーくらいなもので、大きなフロントウインドー、特に曲面ガラスのドアウインドーは世界でも稀、斬新なものだった。

スズキは65年からフロンテ800の市販開始で登録車メーカへの仲間入りを果たし、69年までに2612台を生産して目的を果たす。スズキは次のモデル、フロンテ1000も完成していたが、市場に投入される事はなく、83年のカルタス登場まで、登録車市場から撤退して軽自動車メーカーとして活躍を続けるのである。

翌年のショーに登場したフロンテ800

撤退の理由は、当然の事ながら、国会での法案不成立にあり、無理して登録車市場に固執する必要が無くなったこと。800の採算性が悪かったこと、そして小型市場で未だFFが異端児扱いされていたことだったようだ。

いまでこそFFは、世界中で当たり前の機構になり、特に中型以下ではFRを探すのも難しい時代になったが、当時FFは世界的にマイノリティーで、自動車では発展途上国の日本では、根拠なく信用のないメカニズムだったのである。

第九回ショー開催の62年/昭和38年は鈴鹿サーキット完成、国産旅客機YS11完成、東京が1000万人都市に、というように発展する日本の新旧交代の時期。一丁倫敦と呼ばれた、煉瓦造りが続く丸の内の三菱街も壊されるので知識人達が悲しんだ年でもある。

ちなみに、この記事は95年(平7)5月3日(土)発行、カー&レジャー紙掲載のリメイク版だが、当時は前輪駆動=FFだったが、後にFFは世界に通用せず、FWDと判って最近の記事ではFWDと表記している。念のため。