【車屋四六】変な外人のロータス

コラム・特集 車屋四六

波嵯栄菩武と書いて、ハザエイボブと読む。本人が書いた署名では、武の字の偏に王が付くのだが、私のワープロ機能にはその字が存在しないので略させて頂く。

彼は学習院に学び、教鞭を執り、下手な日本人より日本に詳しく、立派な日本語を流暢に話すから、日本では”変な外人”と呼ばれる人物である。以前、本稿でブガッティのオーナーと紹介した記憶がある。

写真トップは、66年5月3日の富士スピードウエイ。第三回日本グランプリのスターティンググリッド。ゼッケン①はロータスエリート。ドアを開け”いざ出陣”という姿が波嵯栄菩武である。

エリートは、57年が初お目見え。レーシングカー専門開発だったロータス社初の市販ロードカー。今でも通用する流麗な姿だが、当時の日本といえば、ダットサン210やダルマコロナの時代だから、彼我の差は月とスッポン。

でも懸命に働き、既に敗戦の後遺症も消えて収入も増え、庶民憧れの三種の神器が”白黒TV・電気冷蔵庫・電気洗濯機”と生活必需品ではなく、贅沢品に移行した時代でもあった。

エリート発売は59年。高価なスポーツカーだったから63年までに売れたのが約1000台。しかもコスト高で売れれば赤字という困った体質を、62年登場のロータスエランで脱出した。

波嵯栄菩武と書いて、ハザエイボブと読む。本人が書いた署名では、武の字の偏に王が付くのだが、私のワープロ機能にはその字が存在しないので略させて頂く

彼は学習院に学び、教鞭を執り、下手な日本人より日本に詳しく、立派な日本語を流暢に話すから、日本では”変な外人”と呼ばれる人物である。以前、本稿でブガッティのオーナーと紹介した記憶がある。

写真は、66年5月3日の富士スピードウエイ。第三回日本グランプリのスターティンググリッド。ゼッケン①はロータスエリート。ドアを開け”いざ出陣”という姿が波嵯栄菩武である。

エリートは、57年が初お目見え。レーシングカー専門開発だったロータス社初の市販ロードカー。今でも通用する流麗な姿だが、当時の日本といえば、ダットサン210やダルマコロナの時代だから、彼我の差は月とスッポン。

でも懸命に働き、既に敗戦の後遺症も消えて収入も増え、庶民憧れの三種の神器が”白黒TV・電気冷蔵庫・電気洗濯機”と生活必需品ではなく、贅沢品に移行した時代でもあった。

エリート発売は59年。高価なスポーツカーだったから63年までに売れたのが約1000台。しかもコスト高で売れれば赤字という困った体質を、62年登場のロータスエランで脱出した。

エリートのエンジンは、コベントリークライマックス製の1216㏄。チューニングにより、71馬力、83馬力、95馬力、105馬力が選択でき、変速機もBMCかZFをチョイスできた。

ファイバーグラス製モノコックボディーは669㎏と軽量。”チャプマンストラット”と自慢のリアサスと相まって、当時最高のコーナリングは、驚異的しなやかさの絶品だった。

グランプリのスタートは午後1時30分だから、その5~10分程前の風景。レースは有名なバンクを含む初期のフルコースを60周、合計360㎞という長丁場である。

スタートして直線が終わり、右へ駆け下る名物の30度バンクは、後に”魔のバンク”と呼ばれるようになり、何人ものドライバーの命を奪った所である。

この日も、午前9時発走のGP前哨戦、ツーリングカーレースにベレット1600GTで出場の永井賢一が、2周目のバンクで、ガードレールを越えて空中に飛びだしたのがFISCO最初の犠牲者だった。彼はいすゞファクトリードライバーで、前週に船橋サーキット優勝という27才、将来を期待されたドライバーだった。

さて、エラン出場のGP本命レースでは、レース前からの話題が、鈴鹿の雪辱戦と張り切る4台のプリンスR380vs滝進太郎のポルシェカレラ6、そして初顔人気のトヨタ2000GTの戦い。

鈴鹿から富士に移った最初の日本グランプリレース開催の66年は、サニーやカローラが登場しマイカー元年と呼ばれる、昭和41年。三種の神器も当然のようにレベルアップして3C時代”カラーTV・クーラー・カー”、贅沢になったものである。

急速な日本経済成長とは裏腹に、排気ガス規制が始まり、数年でモータースポーツから自動車メーカーが手を引く、受難の年月が目前に迫っているなど、誰も気が付かなかった。

ご存じだろうがGPの結果を念のため。優勝は雪辱を果たしたプリンスR380、期待のポルシェはクラッシュでリタイア。

私がセスナ172RGで空撮のFISCO。手前の大きなカーブが革底靴では滑って登れない”魔のバンク”。82年頃の撮影