【車屋四六】陸軍四式戦闘機

コラム・特集 車屋四六

かつて日本には陸軍と海軍に航空隊があった。海軍のゼロ戦/三菱は世界的に有名で、戦争末期に活躍したのが紫電改/川西だった。
一方、陸軍の初期は隼で、末期は疾風、共に中島製である。

当時の私は小学生。ゼロ戦の名は戦後になってから知った。映画で軍神{加藤隼戦闘隊}を見て、軍歌♪エンジンの音ごうごうと…♪を歌ってしたから、戦中の有名戦闘機は隼だった。

ちなみにゼロ戦・隼ともに栄型1000馬力搭載。紫電改?疾風は誉型2000馬力で、開発者は中島の中川良一技師/世界最高航空発動機開発の権威で、戦後プリンス自動車を創業、後に日産副社長。

さてゼロ戦とは、零式戦闘機を米軍が翻訳した呼称だが、零式の元は正式採用の紀元年から。紀元2600年が起点で、同年採用で零戦戦闘機、2601年決定で隼は一式戦闘機が正式名称である。
ちなみに2600年は昭和15年だから1940年である。

日本では敗戦後に有名になったゼロ戦:落下燃料槽付だからラバウル基地から長躯ガダルカナル攻撃への出発風景だろうか。毎週自宅に届いた戦意高揚写真

栄発動機の改良、誉れ開発の中川技師は、帝大/現東大工学部から中島飛行機に就職、やがて誉れの開発が始まると、ターボ開発に中村良夫/後のホンダF1監督、そのターボ艤装に百瀬晋六/後にスバル360開発、等々、秀才が集まり活躍したのである。

写真は隼後継機の四式戦疾風。疾風の諸元は、誉/空冷星形18気筒3万6000cc2000馬力・全長9・7ⅿ全幅11.2ⅿ・重量2680kg/全備3760kg・20粍機関砲x2+12.7粍機関銃x2・爆弾500㎏・最大速度620㎞・航続1600㎞。生産3413機

疾風は「こんな強い戦闘機が未だ居た」と戦争末期に米空軍が恐れた戦闘機だ。戦後米空軍はめぼしい飛行機を集め、空母2隻で本土に運び、厳しい調査をした。

疾風は、米国の高級燃料と潤滑油、点火栓と高圧コードに交換すると2200馬力も出て、米軍が目を見張る高性能を発揮した。米新鋭戦闘機が追いつけぬ689㎞という速度、そして模擬空戦では、歴戦操縦士が操る米戦闘機が尻尾を巻いたと、あとになって聞いた。

さて調査が終わると廃棄されたり放置されたりだが、疾風は70年代にロス近郊チノの博物館がレストア、息を吹きかえして、入間の航空ショーに里帰り、73年に飛ぶ勇姿を見せてくれた。

ショーが終われば帰国になる疾風に思わぬ待ったを掛けたのは後閑盛直。彼は私のパイロット仲間でもあったが、戦争中は戦艦や巡洋艦のカタパルトから打ち出される零式観測機の操縦士で、戦後山手不動産を創業、自家用機ビーツクラフト・ボナンザで沖縄から北海道までの無着陸飛行などで活躍した人物。

その後閑さん、疾風で飛ぶ様子がない。そこで聞くと「後世に残す日本の宝として買った」と云う。機体は彼の死去で保管を依頼された富士重工宇都宮工場から、京都嵐山美術館へ→美術館倒産で移った南紀白浜の零パークでは展示されず、現在は知覧特攻平和会館に展示されている。

知覧飛行場からの特攻機には疾風もいたから、安住の地を見つけたとも云えるのだが、もう飛べないのが残念だ。せっかく飛べたのだから、中島飛行機が祖先の富士重工が買い取り保管すれば、と悔しいのが私の心情である。

入間で飛行中の疾風:飛行中の写真三枚をパネル張りにして過日親切に案内してくれた特攻平和記念館の峯苫さん宛に送った。峯苫さんは特攻時代飛行場勤務の貴重な生き証人である