【車屋四六】出る釘を打たれたシャンテ

コラム・特集 車屋四六

昔の諺に”出る釘は打たれる”というのがあるが、シャンテはまさにそれだった。栄光に輝き世界から注目されるはずの車の運命は、ライバル達のエゴに打ち砕かれてしまった。

戦前から戦後のオート三輪市場でリーダー格の東洋工業は、小型トラックのロンパーで53年に四輪自動車業界に仲間入り。次いで55年、軽自動車R360クーペで乗用車市場にも仲間入り。

R360クーペは一部に支持されながらも2+2は主流にはなれず、二年後に登場したのが四座席のキャロルセダンだった。これには660㏄搭載車もあったが、本格的登録車からは仲間はずれ。

登録車市場進出には慎重だったマツダが、いよいよ時節到来とばかりに、ファミリアで打って出た。62年の東京モーターショーでお披露目のマツダ1000をベースに生まれた車である。 マツダにとり軽自動車は、あくまでも登録車市場進出への足がかりだったようで、市場でファミリが市民権を得ると、併売していたR360クーペとキャロルの生産を70年に打ち切ってしまった。

話変わって、マツダはファミリアを誕生させた頃、NSUバンケルと61年にライセンス契約したロータリーエンジン(RE)の実用化に向けて、本腰入れて取り組んでいた。

艱難辛苦の末マツダはREの量産技術を確立して、世界のトップに立ち、67年に世界初のREスポーツカーを発売する。それ以後のマツダは、ファミリア、サバンナ、カペラ、ルーチェと、急速にREファミリーの輪を広げて、それを”ロータリゼーション”と呼んだ。

ロータリゼーションは何処まで進むのか、ことによるとマツダは全車RE化を目指しているのではないか、そんな話題が交わされるようになった頃「どうもREで軽自動車を開発しているようだ」との噂が流れた。

シトロエンもRE発売に執念を燃やした。RE量産化の目処が立ち275台も量産試作されたM35。(パリのシトロエン収蔵庫で)

結論から先にすれば、軽自動車のREは登場しなかった。72年、マツダに再登場したシャンテは、本来ならRE搭載のために開発された軽自動車だった。

こいつは、日産の二代目シルビアも同じ。RE搭載の予定を変更した理由は全く異なるが。シルビアは発表直前に発生した石油ショックで、燃費が悪いREを見送ったのだ。

後に聞いたところでは、シャンテ用REはシングルローターで、他社とのバランスを考えて、かなり出力を押さえたものではあったが、それでもかなり強力だったようだ。

その頃の日本はモータースポーツ真っ盛り。軽自動車では市販の360㏄でも40馬力当たり前だったが、RE軽自動車の出現に業界は警戒感を強くした。

で、あらゆる方面からマツダに圧力を掛け、また行政指導もあったようで、ついにマツダはREシャンテの発売をあきらめたのである。が、開発費を掛けた車体まで没にするわけにもいかず、2サイクル359㏄35馬力を搭載して発売に漕ぎ着けた。

現在のプリウスやインサイトのように「俺はお前達とは違う」と主張する差別化同様、シャンテのシルエットも飛び抜けて美しかったから、なおさら惜しまれる。シルビアも同じだった。

綺麗という点ではこれもピカイチ。シャンテ同様RE搭載目的で開発されたのに意に反してレシプロ搭載で発売された二代目シルビア

搭載するはずの心臓を失ったシャンテは、モデルチェンジもせずに、75年に市場から消えていった。

ちなみにシャンテが登場した72年は、俗に云う三角大福戦争で、日本列島改造論の田中角栄が天下を取り自民党全盛。田中は日中国交回復し、おみやげのパンダでブームが起きた。札幌オリンピック。グアム島から横井庄一帰還「恥ずかしながら」が流行語に。連合赤軍事件、川端康成自殺、いろんな事があった。