【車屋四六】フェアレディーZの偉業

コラム・特集 車屋四六

フェアレディーは日本の車だが、世界の自動車市場で空前絶後の偉業を成し遂げた車と云ったら、改めて感心という人も多いだろう。
欧州本場のスポーツカーには100年を超える歴史があるが、そのほとんどはコツコツと手作り少量生産というのが常識だった。

そんな常識を破ったのが日産…59年誕生の初代フェアレディーを世界最大のスポーツカー市場の米国に輸出、本場で鍛えながら、着々とノウハウを習得していった。

当時米国では、ポルシェ、MG、トライアンフ、アルファロメオ、シンガー、ヒーレイ、モーガンなどが賑やかに走っていた。もちろんジャガー、フェラーリ、コルベット、アストンマーチン、ベンツなど大型スポーツカーも居たが、フェアレディーのライバルは前記ライトウエイトスポーツカーの一群である。

そもそも日産のスポーツカーはダットサンDC-3→二代目→三代目と進化したダットサンフェアレディーで本格活動を開始し、日本GP優勝、そして米国輸出を開始後、戦闘力強化で1.5→1.6→2ℓと排気量を増し、69年に登場したのが四代目フェアレディーZだった。

Zの投入で、米国スポーツカー市場で熾烈な戦いが始まった。
勝ための排気量の拡大、Zのライバルのポルシェ911と拡大のシーソーゲームを演じて、決定打を放ったのがGノーズと呼んだ、240Zの登場だった。

そんな戦いの、とばっちりを受けたのが欧州の名門老舗で、市場から脱落していったが、ライバル消えれば販売量が増える→量産効果で値が下がる→しかも高性能高品質と来れば鬼に金棒…そして二匹目の泥鰌(ドジョウ)狙いのマツダRX-7と共に、米国サーキットを暴れ回ったのである。

結果、最盛期にはZの生産量は月産1万台を越えた…こいつはスポーツカー市場空前の出来事…量産効果は日本にも及び、2ℓ/108万円、240Z 150万円、74年登場のZ-L2by2/149.8万円と安かった。

フェアレディー=米国ではダットサン。米国にダットサンを持ち込み、市場の要求、傾向を分析、それを日本にフィードバックして、世界最高のスポーツカーZ誕生に繋げたのは、片山豊米国日産社長…我々親派は{オとっつぁん}だが、米国のファンは{Father of Datsun}また{Mr,K}と呼んでいる。

フェアレディーZ

それも道理、片山さんが米国に売ったZは、実に100万台を超え、いまだに20万台ほどが大切に保存され{ズィーカー}の愛称で呼ばれて走っているのである。
米国には{Zカークラブ}が誕生、現在も活動中で、大きなイベントには{ダットサンの父}として招待される。が、2005年、105才で鬼籍に入ったが、好きな車との一生、満足だったと思う。

日産コンツェルンの総帥鮎川儀介と姻戚関係の片山さんは、慶大卒後昭和10年入社→宣伝に活躍→戦争中は満州→終戦後復帰。戦争がなければ社長候補の片山さんは経営陣の一部から嫌われ、不振の米国市場なら自滅退職、という魂胆での転勤命令だったようだ。

が、地道にダットサンを売り歩き→成功→本社は仕方なく米国日産社長に据える。とにかくZも、銘車と云われるブルーバード510も、片山さんの要望企画→米国自動車殿堂入りも果たすが、その後も本社の冷遇は続いた…優勝でダットサンの名を世界に知らしめた豪州ラリーも企画は片山さんだが、早々に帰国させたドライバーの全国的お祭り騒ぎとは裏腹に、残務整理後帰国した片山さん「座る場所がなかった」とはオとつぁんから聞いた話である。

NACAダクトはハイパワーの象徴:当時の強力バージョンのお定まり装備だった