【車屋四六】独逸の大衆車が日本ではステイタス

コラム・特集 車屋四六

日本でカブト虫が愛称のVWビートルは、世界的ベストセラーだから地球上何処でも見かけられるが、日本ほどステイタスな地位を与えた国は他にない。これひとえにヤナセの功績である。

“良い物だけを世界から”をキャッチフレーズのヤナセが、VWのエージェントになり輸入を始めたのが54年。その頃日本市場は、高級車から大衆車までアメ車が日本人には憧れの的。新車の時からダサイ日本車など、上等な人達の乗り物ではなかった。

憧れのアメ車の中でも最高人気はキャデラック。ヤナセの芝浦ショールームではビュイックと共に威張りかえっていた。もちろんリンカーン、クライスラーインペリアル、パッカードなども大臣高級官僚大企業経営者の常識的足となっていた。

中小型車ではイギリス車が多かったが、フランスのプジョー(東欧自動車)、シトロエン(日仏自動車)、ベデット(国際興行)、ディナパナール(新東通商)、シムカ(キングレーモータース)、ルノー(日野ルノー販売)などはマイノリティーだった。

今では人気最高のドイツ車も当時はイマイチ。ベンツは名前が知れているだけ、BMWは知名度もなし。アメ車人気のパッカードで儲けていた溜池の三和自動車が「ポルシェは見てもくれません」「BMWも駄目ですね」とこぼしていた。

余談になるが、そんなポルシェ356の日本初オーナーは、高校でクラスメートの梅澤文彦(新橋十仁病院の長男で現在院長)。

もっとも、戦前(WWⅡ)のドイツを懐かしむ小数派向けに、メッサーシュミット(バルコム貿易)、ロイト(安全自動車)、ゴリアート(東京自動車販売)、チャンピオン(黒崎内燃機)、グートブロート(ベルンシュタイン商会)などが細々と輸入されていた。

50年代初頭、あまり売れてはいなかったが、きちんと店を構えていたのは、黒崎内燃機ベンツ&チャンピオン、バルコム貿易BMW&メッサーシュミット、日本アメリカン自動車ボルグワルドハンザ、東急自動車DKWなどだが、売れ行きは芳しくなかった。

が、何故か断トツ人気、それも輸入小型車全体の中でというのが、オペル・オリンピア・レコルトと、独フォード・タウヌスだった。レコルトはオールズモビルを併売する東邦モータース、タウヌスは仏フォード・ベデットとKK十番街モータースとドッドウエル商会も扱っていた。

54年、断トツ人気のドイツ製2ブランドに宣戦布告をしたのがVWを担ぎ出したヤナセだった。当時の値段は、タウヌス100万円、レコルト96万円、そしてドイツでは前記二車より少々格落ち大衆車らしくVW85万円だった。

ヒトラーの国民車として、ごく一部のマニアにVWは知られていたが、一般的知名度はなく「果たして売れるだろうか、値段が安いから何とかなるかも」と、私は思った。

輸入開始当時、有名な空冷水平対向四気筒エンジンは、OHV1131㏄、24.5ps/3300rpm。フロアシフト4MT。電装6ボルト。車重800㎏。四輪トーションバースプリング、四輪独立懸架。

ヒトラー総統の肝いりでポルシェが開発したフォルクスワーゲン。試験走行のためのプロトタイプ。後ろ窓がない

売れるかな、と思ったビートルだが、さすがヤナセの底力、着々と売り上げを伸ばし、輸入車市場ナンバー1ブランドになる。

ふと気が付くと、世界中では大衆車なのに日本ではステイタスを身につけ、上等な車として存在感を誇示していた。但し、リアウインドーに黄色い”ヤナセ”のステッカーが貼ってあることで。

以来、VWはビートルから1500へ、そしてゴルフへと成長を続けて38年、突然ヤナセが販売中止を発表した。

輸入ナンバーワンでも更に売り上げを伸ばそうという、VW本社の欲張魂胆でヤナセは輸入権を返上した。が、腹の虫が治まらない梁瀬次郎社長は当時知名度最低のオペルの輸入販売を開始、VWに戦いを挑んだのである。

さて、ナンバー0001のビートルは、54年に輸入開始した時の記念すべき第一号車。側の人物は富澤孝。慶大アメリカンフットボールのスターで、卒業後ヤナセ入社。この記事を書いた平成四年頃は、ヤナセ世田谷支店長。後に梁瀬会長秘書、ベンツの営業で手腕を奮った人物だが、実はウチのカミサンとは従兄弟同士。

輸入エージェントのヤナセ芝浦本社ショールーム前のフォルクスワーゲンと看板