かつてイギリスは、世界最大級の自動車供給国だった。が、合併統合を繰り返し、かつての植民地にブランドを売り渡しながら、今では壊滅状態と云ってもおかしくない状況だ。
WWII以前にさかのぼれば、数え切れないほどの大小メーカーがガン首を揃え、王侯貴族国家元首御用達高級車に始まり、大衆車、スポーツカー、何でもござれで輸出に対応していた。
その中フォードは、一時期イギリス一の生産量を誇った時代もある。アメリカフォードは、日本を初め、ドイツ、フランスなど各国に生産拠点を持っていたが、イギリスにもあったのだ。
イギリスフォードの誕生は1911年。輸入のT型フォードの売り上げが伸びて、完成車輸入よりはノックダウンの方が有利との判断で、100%子会社設立となった。
ちなみに、この11年は老人女性に嬉しい年。クランキングが苦手、時にはケッチン食らって腕や顎の骨を折ることからの開放である。史上初、電気スターターがキャデラックに採用されたのだ。また日本では、花崗岩八万余個でルネサンス様式の現日本橋が完成。
イギリスフォードは、その後T型からA型へと進化したが、大英帝国フォードの基礎を築いたのは、世界的人気の小型大衆車”ベビーフォード”フォードエイトの爆発的人気によるものだった。
そしてWWII中は御多分に漏れず軍需産業に転換。終戦を迎えた45年には戦前型での生産再開も常識通りだが、50年になって発表した純戦後開発の新型がホームランを放つ。
“コンサル”(写真トップフォード・コンサル。比較的早く戦後型に変身の米車に対し英車は戦前姿のままが多い中、突如現れたこの姿に世界が注目した:)と”ゼファーシックス”。2車に世界中が注目したのは、斬新機構とスタイリング。エンジンはその頃常識だったサイドバルブからオーバーヘッドバルブに。
ボア79.3㎜、ストローク76.2㎜という回転馬力指向のオーバースクエア型も珍しく、コンサルは四気筒、ゼファー六気筒と差別化されていた。コンサル用は1508㏄で47馬力、ゼファー用は2262㏄で68馬力。最高速度はそれぞれ115キロ、130キロ。
最大の注目はスタイリングで、当時の常識であるべき物が、有るべき所に無い。我々が子供の頃に”泥よけ”と呼んでいたフェンダーが無い姿だった。数年後に登場するジャガーXK-120と同様に、当時の常識では異常な姿、近未来SF的スタイリングだった。
もっとも本家アメリカフォードでは、前年の49年に登場して世界を驚きと感心に巻き込んだスタイリングだが、こうも早くヨーロッパに登場するとは、想像もつかなかったのである。
本家のフォードは、その後アメリカ各車が取り入れる、朝鮮戦争でミグとの一騎打ちで一躍有名になるジェット戦闘機をモチーフの吸気口が配されていたが、イギリスフォードのはそれほど過激でなく、単にフラッシュサイドボディー姿を頂戴したものだった。
同じシルエットの両車は、コンサルの全長が4169㎜、ゼファーシックスが4365㎜。横からは遠目に区別が難しいが、グリルが違う正面なら、簡単に識別できた。
このスタイリングは好評だったと見えて、その後登場する高級なゾディアックや、大衆車のプリフェクトにも順次取り入れられ、今では世界中で常識的スタイリングになってしまったが。
六本木ミッドタウンはかつての防衛庁。日本帝国陸軍第一歩兵連隊の駐屯地だったが、敗戦で上陸した進駐軍に接収されて米陸軍第八騎兵師団とPXになる(PX=軍用デパート)。
もちろん日本人オフリミットだが、そこから出てきたコンサルを見た時、泥よけの無い姿はカルチャーショックだった。「なんて綺麗な車なんだろう」と思ったが、やがて日本人が乗るようになり、特にタクシーで使われるようになると、見る間に評判が下落した。
その頃イギリスでは100%舗装だと聞いて感心したものだが、そんなところで生まれたコンサルのサスペンションは、名だたる日本の悪路を走るとたちまち馬脚を現した。
斬新なマクファーソンストラット上部が固定されたボディー側に亀裂が発生する。どのタクシーもボンネットを開くと、その部分が丸く厚い鉄板の溶接で補強されていた。
が、当時中学生の身には、走っているのを見るだけだから、綺麗な姿を充分に楽しませてもらった。