【車屋四六】波嵯栄のブガッティT50

コラム・特集 車屋四六

波嵯栄ボブ=ボブ・ハザウエーは、漢字名でエントリーしていた。昭和13年12月31日というから大晦日に生まれたイギリス人で、当時は確か学習院大生だったようだ。

彼は、初期のレースでは名物男で、鈴鹿サーキット、船橋サーキット、富士スピードウェイを所狭しと走り回っていた。ロータスエリート、ロータスエラン、フォーミュラ型ロータス31など、いずれも涎が出るような一流だった。

大学生で、これだけの車を揃えられるのは、金持ちかイギリスのやんごとなき家柄の出身だったのだろう。彼は、日本が気に入ったようで、後に学習院講師になって日本に腰を落ち着けたと聞く。

話は変わるが、昭和40年代、私のムーニーの基地調布空港に、小型双発のパイパーコマンチが飛来した。数回会ったのに名前は忘れたが、王室に近いイギリス貴族で、日本大使館赴任が決まりイギリスから自身の操縦で飛んできたと云っていた。

日本と違いイギリスの王侯貴族は危ないことが平気でやれるようで、羨ましい限りだ。といって、私は昔の戸籍では平民だから、何処で野垂れ死にしようが困らないが。

そんな彼の車を虎ノ門の路上で見かけた。ロータス大好き人間だと思っていたのに、それはクラシックカーでコレクター垂涎の的ブガッティT50だった。(垂涎=すいえん/すいぜん=何としてでも手に入れたい物)

トヨタ博物館のブガッティと筆者:当時の高級車はシャシーだけを発売、オーナーは好きな架装を発注。レース用では写真のようになる

垂涎の的ブガッティT50。日本的表現をすれば本来床の間に飾っても可笑しくない宝物を、日常の足に使ってしまう、これぞ金満家ジョンブルの”粋”なのかもしれない。

バブルが膨らんだ頃、クラシックカーの名品が世界から日本に集った。ブガッティも何台か。が、日常使用しているのを見たことはない。後にも先にも虎ノ門の一台だけ。日本で走る姿を見られるのは、クラシックカーフェスティバルなどを除いてない。

秋のパリショーにブガッティT50が登場したのは、私が生まれる4年前の30年。高級車専門メーカー、レーシングカーメーカーのブガッティ社で、初めてのDOHCエンジン搭載車だった。

直列八気筒DOHCで4972㏄。スーパーチャージャーの過給で200馬力/4000回転という高出力。T50はツーリングと呼ばれ、今で云うGT。ホイールベースが短かなグランスポールは300馬力で、各地のレース場で活躍した。

ボア86㎜、ストローク130㎜、典型的ロングストロークの素晴らしいトルク特性で、トップギアのまま時速8キロから180キロまでをカバーし、その加速力は下手なスポーツカーを上回ったというのだから大変なものである。

もっとも値段も飛びきりで、ロールスロイス・ファンタムと同格で、パリのカロッツェリア(仏語ではカロッシェ)の洒落たボディーを付けたT50は社交界の花形でもあった。

一方、暫くするとレーシングカー仕立てのT50に悪評が立つ。「ベラボーに速いが猛獣のように扱いにくい」というのだ。とにかく200キロオーバーは朝飯前だが、扱いにくさも一流で、名手を何人も死に追いやった。

また四輪駆動のレーシングカーも派生した。コリン・チャプマンもそうだが、レーシングカーで極限を狙うと、四輪駆動の魅力に引き込まれるようだ。

が、完成したブガッティ四輪駆動は成功しない。一言で云えば、濡れた路面の発進停車は素晴らしいが、コーナーでドリフト走行が出来なかったという。

とにかく、高級なツーリングカーとしてのT50は大成功。瀟洒な姿のT50に貴婦人が乗る姿は、想像するだにゾクッとする。が、以後、美しくお洒落なT50を日本の路上で見かけたことはない。

が、もう一度見たことがある。私がヒーレイ100でクラス優勝した伊豆長岡のヒルクライムに、彼もエントリーしていたからだ。

SCCJ伊豆長岡ヒルクライムでゴールの頂上。判断不能だが後ろ左から私のヒーレイ、MG-A、トライアンフ。”3は2259″当時品川登録車だけ地域名が無い