前回からの続きと云うことになるが、オオタ戦後再スタートの最初の作品はトラック、小型のピックアップだった。その車が立川飛行機に行って、乗用車に変身するのが今回の話。
さて立川飛行機(立飛)だが、戦争中は軍用機メーカーだから、御多分に漏れず敗戦で仕事が無くなった。が、アメリカ軍の接収管理下に置かれたので、消滅は免れた。
ちなみに、戦後トヨタの新車、トヨエース、パブリカ、S800,セリカなどの開発主査で後に専務、日本自動車殿堂入りする長谷川龍雄は、帝大(東大)工学部航空学科卒後に、立飛でB29迎撃用高々度戦闘機の開発主任だった。
敗戦後の立飛は、飛行機屋らしくジュラルミンの加工技術を生かして、米軍用の家具や食器類の製造などの生産に生き残りを賭けた。やがて米軍の信用も得て、軍用のジープやトラック、将校用の乗用車などの修理整備に手を広げていった。
この過程で得た技術ノウハウが、後の乗用車開発製造の役に立つのだから、運の善し悪しとは判らないもの。
中島飛行機も、愛知航空機も、メッサーシュミットも、ハインケルも、敗戦で飛行機が作れなくなれば考えることは一緒のようで「飛行機が駄目なら自動車を」ということで、米軍御用達部門と離れて自動車開発グループが生まれ活動を開始した。
当時の日本は、戦争が終わっても、相変わらず木炭バスやトラックが全盛だった。ガソリン統制がそのままで自由に買えないのだ。
で、立川飛行機(立飛)の技術屋達は、電気自動車を作ろうと考えたのである。そんなところで、オオタ製トラックの登場となる。その切っ掛けは単純明快。
戦争中、高速機関工業(オオタ)は立飛の下請けだった。が、戦後は主客転倒、立飛はボディー造りでオオタの下請けとなる。が、立飛はそのボディー造りで、自動車に関する技術を学習蓄積することが出来たのだ。
立飛の自動車開発は終戦の暮れにスタートして、翌年に試作が完成。試作品だから、オオタのピックアップ荷台にバッテリーを積み、エンジンルームにモーターを搭載した程度のものだったようだ。
電気自動車の開発にあたって、立飛にはバッテリー技術がないので、研究開発は湯浅電池が担当。モーターと関連部品は日立が受け持った。これも、戦争中からの取引関係が生かされたようだ。
たま号と命名された、ピックアップ型電気自動車が市販されたのは47年。電気自動車を販売するにあたり、東京電気自動車(株)が設立されて、立飛からは分離独立した。
同じ47年中に後を追うようにして、たま号電気乗用車も発売した。乗用車の方は荷台がないので、40Vのバッテリーを床下に格納したから、背が高い独特な姿になった。
ちなみに、たま号の由来は、まことに知恵のないネーミングである。会社所在が府中、府中の所在地が多摩ということで、技術屋集団らしい思いつきといえよう。
こんなもの売れるのか?不安のうちに売り出すと、思わぬ好評で、造れば売れるという嬉しい結果が待っていた。が、日本経済復興が軌道に乗り、ガソリンが買えるようになり、売り上げが低下。で、モーターをガソリンエンジンに載せ替える。
そのエンジンの供給元が富士精密。中島飛行機がGHQ財閥解体令で生まれた会社だから、戦争中のライバル同士の縁が結ばれたのである。
が昔から”武士の兵法は”何とやら、というようにたま号の人気は回復せず、富士精密と結婚ということになり、やがてプリンス自動車へと発展することになる。