【車屋四六】富士→たま→オオタ

コラム・特集 車屋四六

日産と合併前のプリンス自動車は、スカライン2000GTやプリンスR380など、日本トップレベルの高性能車を開発して、サーキットを暴れ回ったことで知られている。

この会社、プリンス自動車を名乗る前は”富士精密”で、更にさかのぼれば日本最大の飛行機メーカーの中島飛行機にたどり着く。また会社の歴史を調べれば”たま”とか”オオタ”という、既に忘れ去られた社名や車名が出てくる。

さてオオタだが、この会社WWII以前からの自動車メーカーだから老舗である。名前の由来は製作者の太田祐雄からで、彼が初めて小型車試作に成功したのが23年(大正12)で、O=太田、S=祐(すけ)雄の姓名から、OS号と名付けられた。

次にOS号ベースに750㏄車を開発、オオタ号と命名して、発売を始めた33年(昭8)は、皇太子殿下(現平成天皇)誕生の年で、私が生まれた年でもある。

この年、米国の満州国不承認案が国連で採択され日本は国連脱退。満州駐屯の関東軍が北京に向けて南下を開始。一方、独逸ではヒトラーの首相就任でナチス独裁政権誕生。世界はWWII開戦に向けて歩み始めていた頃だった。

戦後再出発で登場したオオタ号。ひどい姿と思うだろうが、当時のダットサンやトヨペットよりスマートだった

当然のように日本は軍国主義の台頭で、基幹産業は外国に頼らず自前での方針でと、いすゞや三菱は儲からない乗用車製造から、軍の補助が貰えるトラック製造に転換したのもこの頃。

が、乗用車も見捨てられたわけではなく、35年に三井財閥が資本参加して、オオタ自動車は高速機関工業へと改名した。

さて、戦中の話は省いて、WWIIは45年春に独逸降伏、夏に日本が降伏して終わり、車の製造が禁止された。が、やがてGHQの自動車製造禁止令が解除されると、初めに息を吹き返したのは、日本の再建復興で優先されたトラックだった。

乗用車生産禁止が解除さるのは、戦後3年目の48年で、オオタも生産を再開した。そのPA型セダンはツードアで、20hp/4000rpmエンジンを搭載していた。

このようにして乗用車造りを再開して、経営が流れに乗り始めた52年に、社名をオオタ自動車工業と改めた。

が、生産された車のほとんどの納入先はタクシー用で、自家用車としてはごく僅かしか売れなかった。国中が貧しい中で、一部の裕福層が買うのは、国産車ではなく外国車だったから。

53年になると、観音開き型フォードアセダンを生産するが、こいつはタクシー業界の当然の要望に応えたものである。が、大企業が底力を発揮して発展する中で、オオタは流れに乗り切れず、57年になると日本内燃機工業に吸収合併される。

この会社の”くろがね”は、戦後の物量で大活躍する三輪車貨物自動車だった。

PK-1型オオタ号は、吸収合併する直前の55年に登場したが、これがオオタを名乗る最後の作品となった。が、そのスタイリングは今見ても綺麗なもので、消えたのが惜しまれる。

今回の表題、富士→たま→オオタ、三題噺のようなテーマだが、富士の富士精密、そしてオオタは登場したが、それでは”たま”はということになろう。

実は、戦後たまが登場する時に、流用したのがオオタのトラックだったのだ。それで誕生したのが、たま電気自動車だった。その詳細は次回に。

オオタのOS号ピックアップ:たま電気自動車開発時のベースになった