【車屋四六】二転、三転、フィスコ誕生物語

コラム・特集 車屋四六

富士スピードウェイ、略してFISCOのこけら落としは、66年5月の連休に開催の第三回日本グランプリレースだと思っている人が多いが、実際のこけら落としは、3月開催の第四回クラブマンレース富士大会である。

が、FISCOが此処まで来るには、紆余曲折、回り道の果ての完成だった。(写真トップ:1980年頃の旧FISCOの航空写真:筆者撮影。予想外に大きく愛機に鞭打ち4000m近い高度で、ようやくファインダーに入れることが出来た)

そもそもFISCOを計画したのは商社の丸紅飯田だった。63年秋、アメリカ人ドン・ニコルスが、サーキット建設案を丸紅飯田の森会長に持ち込んで始まった。ニコルスは第一回日本GPにベレルで出場して、レースファンには名を知られていた人物。

当時の日本は未だ敗戦後遺症のせいか、アメリカ人と云うだけで重みがあったから、気軽に大企業の会長に面会出来たのだろう。で、森会長、サーキット建設に興味を持ち始めた。

森会長は、直ぐに日本ナスカーという会社を設立。64年春にサーキット建設地を静岡県小山町に決定した。社名は、ニコルスが持ってきたサーキット案がナスカー方式だったからだ。

ナスカーとはアメリカで行われているレース方式の一つで、それを運営する米国NASCARと、レース運営、サーキット経営、またノウハウを契約した。

やがて完成した設計図では、富士山を背景とした150万坪の土地に、一周4㎞の楕円コースが描かれていた。が、この案は、残念ながら実現しなかった。

というのも、日本ナスカーが資金不足に陥り着工できず、経営を河野一郎に譲渡したからである。この時、後に衆議院議長や自民党党首になる河野洋平が副社長に就任する。

ここでナスカー方式は白紙に戻された。そして当時F1最高のドライバーだったスターリング・モスを招請して意見を聞いた。その意見を元にサーキットの設計を担当したのが大成建設。誕生したのが、ヨーロッパ風サーキット・FISCOだった。

完成した新しいサーキットの設計図に、ナスカー方式の面影が一つ残っていた。後に死亡事故多発で使用中止になる”魔の30度バンク”と呼ばれた部分である。

数年前の秋に撮影の30度バンク。コンクリートの肌は荒れ放題で枯れススキの茂る様子は、正に”強者どもが夢のあとだった

65年、会社名が”富士スピードウェイ株式会社”になり、今度は順調と思われた矢先、またもや事業は頓挫した。今度は、河野一郎が倒れたのである。

政界のドン河野一郎が倒れたことで、FISCO開発はまたもや資金難に見舞われる。そこでバトンタッチされたのが三菱地所で、サーキットはようやく完成した。

さて日本GP開催は、63年の第一回、64年第二回とも鈴鹿サーキットだった。が、第三回が1年あいだを置いた66年になったのには、理由がある。

鈴鹿サーキットがGP開催を辞退したのは、大会運営費を払ってまで開催する意志がなかったのである。鈴鹿はコースをレンタルすることで運営が成り立つという方針だった。

が、GP開催権を持つJAFは、第三回目から運営費を払っての開催を要求したのである。当時のJAFは、今のように懐が豊でなく、何万人もの集客力がある二回のGPを見て、それで利益を得ようという魂胆なのだろうと噂が流れた。

一方、富士の方は完成して最初のクラブマンレースで集まった観客が1万人ほど。で、集客力が高い日本GPを是が非でも3年間は開催したいという悲願と、JAFの魂胆がうまく合致ししたと見るのが自然な発想である。

いずれにしても、FISCOが完成して首都圏のファンは大喜び。もっとも、GP一年間の空白期間も、二番目に完成の船橋サーキットで関東のファンは楽しんでいた。その後、筑波サーキット、また九州、岡山、仙台などにもサーキットが完成して、日本のモータースポーツは、発展の一途をたどるのである。

トヨタが買収、改修後のFISCOの航空写真