自動車業界の老舗「オースチン社」

コラム・特集 車屋四六

英国が名実共に大英帝国だった頃の1905年/明治38年にオースチン卿が創業したのがオースチン社…自動車業界の老舗である。

で、22年に発売したオースチン7は世界的傑作で、各国でライセンス生産された。BMWではディキシーの名で、米国ではバンタム社が、フランスではローザンギャル社など。社史には無いがオースチン社には日産の記録があるそうで、日本で小型車の代名詞ともなるダットサンは何処から見てもソックリである。

その後オースチンは、吸収・合併を繰り返し大きく発展し、WWⅡ後に傑作ミニで大いに気を吐き、暫く輝いたあと右肩下がりに転じ、御承知のように歴史的ブランドの切り売りが始まる。

で、屋台骨のオースチンMGローバーも、最後は1995年に中国南京汽車の傘下に入ってしまった。

さて、WWⅡが終わり、日本の自動車屋は世界レベルの技術習得のため、欧州メーカーとの技術提携の道を選び、日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチンが誕生する。

日産のオースチンA400サマーセットのノックダウン一号車完成は昭和28年/1953年。愛車だったので懐かしい車だが、私のは輸入車だから姿は同じでも、本革シート、英国ビクター製ラジオ装備で、オーナーズマニュアルが英語なので困った。

オースチンA40サマーセット/1954年英国製:両親と箱根関所跡で

当時、日本の総代理店は日進自動車で、芝園橋際の現在首都高芝公園口の所に在り、A40と少し上等なA70ヒアフォード、スポーツカーのA90アトランティックなどを販売していた。

が、オースチンは大衆車メーカーではない。50年代迄は、ロールスロイスやダイムラーに比肩する大型リムジンも造る名門だった。

一方、52年にはウーズレイ、ライレイ、モーリスを傘下にしBMCと改名、更にジャガー、ダイムラー、ランチェスターも加わえた。

68年には、ローバー、トライアンフ、スタンダードのレイランド社も吸収してBLMCを名乗る。が、吸収合併劇は此処まで…75年に経営悪化で国有化されるが、サッチャー政権の民営化政策で、ローバーグループ、ジャガー、レイランドに三分割された。

ちなみに名作ミニは、モーリス社の開発だが、合併で発売時の車名、オースチンミニ、モーリスミニマイナー、両社かつてのベストセラーの名前にあやかっていた。

さてA40は戦後再出発、まだオースチン社単名時代の作で、斬新なOHV1.2L・42馬力・4MT・全長4040×全幅1600㎜・車重972kg。日本の悪路で私の愛車は前輪ダンパーが油が漏れだし、専用油注入で元に戻るが、徐々に漏れが増加、硬いエンジンオイル、最後はミッションオイルで走った。

ゼニス製キャブは単純、簡単な工具で分解可能、箱根で女性のヘアピンでノズルを掃除して帰京したこともあった。A40に限らず当時はオイル管理が大変で、500哩、1000哩ごとの交換、グリスアップなどが義務付けられていた。

日産はオースチンA40→A50を経て技術学習を終えて、ブルーバード、セドリックへと発展するのだが、本家オースチン社は、時代と共に衰退の一途をたどるのである。

オースチンA135プリンセス1950年代:ボディーはコーチワーク/マカオ総督の公用車/ちなみに護衛警官の単車はホンダ製だった

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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