Svenska Aeroplan Akieb Bolaget、スエーデン語が判らないから、正確にどう翻訳するのか判らないが、物知りに聞いたらスエーデン航空機製造会社ということらしい。
わけの判らないスエーデン語の会社名だが、頭文字を集めてSAAB。これなら世界中の人々が知っている。自動車屋サーブはGMの傘下にあるが、親方GMの不況リストラで、現在はババ抜きの相手探しだが、2009年末現在、路頭に迷っている。が、伝統ある会社だけに惜しい気がする。
SAABの創業は1930年、スエーデン空軍御用達というエリート会社はWWIIで成長した。が、WWIIの終戦で航空機産業はピンチ、そこで自動車部門を作ったのである。
飛行機屋から自動車屋というのは、我が国のスバル、プリンスなどと同で「飛行機から翼を取れば自動車」的発想は誰もが思いつく道らしい。が、敗戦国日本と違うところは、本業の飛行機造りも健在で、サーブのジェット戦闘機は現役で活躍中。
話を戻して、初めての自動車造りは、どんな車にするかで誰でも迷う。で、学習モデルとして白羽の矢を立てたのが、自動車生誕国ドイツの、DKW(デーカーベー)だった。
戦前から有名なオートバイ屋らしく、DKWは2ストロークエンジン搭載の斬新機構の前輪駆動車で、飛行機屋得意のモノコックボディーなど、技術が生かせることも魅力だったのだろう。
DKWには二気筒のゾンダークラッセと、三気筒のマイスタークラッセとあるが、サーブが選んだのは二気筒の方。ちなみに、同型のDKWが第一回日本グランプリに津々見友彦が、新型のDKWで井口のぼるが出場している。
DKWを手本に、自動車開発を主導したギュンター・リングストロームは、その昔イギリスのスタンダード社やローバー社で働いていた経験の持ち主である。
一方、スタイリング担当は根っからのスエーデン人で、元々サーブ社の飛行機部門で翼の開発を担当していた人物。で、サーブの一号車92シリーズを完成発売したのが、1950年だった。
92シリーズは、2ストローク764㏄搭載のFWD型のツードアセダン。飛行機屋らしい空力ボディーが目立つ車だが、手本のDKWと似たような部分も散見できる。
92シリーズ開発エンジニアのロルフ・メルデは、発売直後にスエーデン・ウインターラリーに出場→優勝。軽量FWDのDKWがラリーに強いを立証した。56年、92シリーズは93シリーズへと進化する。エンジンが841㏄になり、42馬力へとパワーアップした。
今でも北欧のドライバーはラリーに強いのが定評だが、そんな連中がDKWで活躍、多くのラリーで好成績を収めた。
その頂点がエリック・カールソン。62年&63年とモンテカルロラリーに連続優勝。また有名なイギリスのRACラリーでは、60年から三年連続優勝をはたしている。
もっとも、カールソンが操る時代の終盤のサーブは、96シリーズに進化、スリーキャブレターでチューニングされたラリー車は60馬力を絞り出し、前輪に斬新なディスクブレーキを装備する高性能モデルになっていた。
この頃になると、世界中のラリー車は高性能エンジンでのパワー競争。で、サーブは巨額な費用が必要な新エンジン開発を避けて、外からのエンジン購入と割り切ることにする。
購入先はドイツのヨーロッパフォード。コンパクトなエンジンルームに入るのを前提に白羽の矢を立てたのは、人気のフォード・タウヌスのV型四気筒1500㏄65馬力だった。
さて、サーブに全くのニューモデル、99シリーズが登場するのは67年だが、元祖92シリーズに端を発する96シリーズは、99モデルと併売されながら実に80年まで、30年間の長きにわたって活躍を続けたのである。
92シリーズが誕生した50年(昭25)はWWII終了後五年目。日本で登場の新車はダットサンスリフトとオオタPBのみ。敗戦後の経済復興に苦労の日本経済は、不謹慎発言ではあるが北朝鮮が南へ侵攻して始まる朝鮮戦争がラッキーだった。連合軍の軍需物資調達、兵器生産、航空機ジープ戦車などの破損兵器修理、トラックの特需も増えた。はたまた大量に使う国連軍兵士の遊興費土産物など、敗戦貧乏経済を上向かせるに十分な効果を上げたのだ。景気向上で1000円札も登場する。
TVは未だなくラジオ全盛だが、NHK聴取料が月35円から50円に上がり主婦達がぼやいた。そのラジオからは、美空ひばりの♪越後獅子♪私は街の子♪、小畑実♪高原の駅よさようなら♪、津村謙♪上海帰りのリル♪、灰田勝彦♪野球小僧♪、久保幸江♪ヤットン節♪、暁テル子♪ミネソタの卵売り♪、また♪雪山賛歌♪などが流れていたのを想い出す。