いわゆるライトウエイト・スポーツカーの本場は、WWII以前からのイギリスだろうが、それに各国ヨーロッパ勢が加わり発展、戦後は裕福なアメリカ市場で大活躍して、ドルを稼いでいた。
そんな熟成した市場に、こともあろうに後進国日本から殴り込みをかけたスポーツカーがあった。フェアレディ1500。その後1600になり、2000になり着々進化を続けて市場に定着していった。
アメリカ市場開拓の火付け役はフェアレディだったが、その後マツダRX-7やトヨタスープラなども参加して、ヨーロッパのポルシェを除いたライトウエイトスポーツカー潰しに成功する。特に被害甚大はイギリスで、名門老舗が壊滅状態となる。
ヨーロッパ勢にとっては天敵の日本製スポーツカーだが、その口火を切って成功に導いた功績は、米国日産の親方、後に米国自動車殿堂入りして、今でも米国ダットサンファンに”ミスターK”と呼ばれ親しまれている、片山豊オトッツァンである。
さて、初代フェアレディはフェアレディではなかった。生まれた時はダットサン211型、商品名ダットサンスポーツ。初披露は58年開催第五回全日本自動車ショー。日本初の本格的量産スポーツカーとして注目された。(実際にはそれ以前ダットサンDC3型と呼ぶMGもどきがあったが名ばかりのスポーツカーだった)
型式名のように、ダットサン1000(211型)がベースで、全長3983㎜、ダブルウィッシュボーン1445㎜、全高1035㎜。日東紡と共同開発のFRPボディーで軽量化の車重は810㎏。
ダットサン1000の最高速度は95キロだが、軽量ボディーと空気抵抗の減少と相まって、スポーツの115キロは、当時の日本のレベルとしては立派な性能。が、定員四名は日本的。高い金を払って二人しか乗れないとの批判を避けるためだった。
エンジンは水冷直列四気筒OHV、B73xS58㎜とオーバースクエア型で988㏄、圧縮比7.0、34hp/4400rpm、6.6kg-m/2400rpm。
60年の自動車ショーに展示のダットサンスポーツのボディーは、FRPから鉄製に変わっていた。そして型式名も、ダットサンSP211からダットサン・フェアレディSPL211に変わっていた。
初めて登場するフェアレディの名に、片山さんは「スポーツカーに女の名などアメリカでは売れるはずがない」と云い、ブルーバードも含めて、日産車は全てダットサンで通し、アメリカ市場でダットサンのブランドを確立させたのである。
ちなみにフェアレディのネーミングは、当時の川又社長がブロードウェイで感動したマイフェアレディからと聞いた。また、名作青い鳥からブルーバード、小公子からセドリック、この時代の日産からは次々とセンチな車名が登場する。
話を戻して、フェアレディSPL211型は、幻のスポーツカーと呼ばれている。というのも、外貨稼ぎ目的の輸出専用で日本では未発売だったから。で、貴方が、コレクターマニアが持つ車を見つけたら、ラッキーだ。
何故日本で売らなかった。理由はいたって単純。その頃、日本には買う人が居なかったのだ。耐乏生活にスポーツカーなど無理な話で、ひと握りの裕福な人達は舶来スポーツカーだけの時代だった。
ちなみにS211は注文生産で、売れたのはタッタ20台だったのだから、日本市場をあきらめる理由に充分だった。
その頃の庶民はスポーツカーどころか、セダンだって絵に書いた餅。国家公務員大卒初任給が1万円、超一流民間企業でも1万5000円ほどなのだから、80万円もするスポーツカーなど論外だった。
当時の人気者、ブルーバード310型1000を、日産では大衆車と銘打っていたが、68万円でも一般サラリーマンでは手が届かぬ高嶺の花だったのである。
ダットサンスポーツSP211型とダットサン・フェアレディSPL211型の外観はそっくりだ。見分ける部分はステアリング。日本市場向けS211型は当然右ハンドル、輸出用SPL211型は左ハンドルということである。
幸いなことに20台しか売れなかったSP211に私は乗ったことがある。オールドダットサンクラブから進化した日本ダットサンクラブ(NDC)のメンバーに、オーナーが居たからだ。(私も会員)
SPL211はやがてSPL212に進化して、フェアレディ1200を名乗る。エンジンが1189㏄になり、43hp/4800rpm、8.4kg-m/2400rpmと出力向上で、最高速度も130キロに向上する。
が、ひいき目に見てもヨーロッパ製スポーツカーと比べれば、性能も機構も未だ遅れていた。例えば、四輪リーフスプリングのリジッドアクスルなど、トラック以外の何物でもなかった。
が、試行錯誤を繰り返し、失敗を重ね、片山さんの陣頭指揮で日産のスポーツカーは、着々と技術を積み上げて、とうとうホームランをカッ飛ばす。フェアレディ1500(SP310)の登場だ。
63年、完成したばかり、日本初の本格的サーキットで開催の第一回日本グランプリ。当時の日本では舶来信奉が続き、日本製スポーツカーなど勝つはずもなかった。
が、スタートして見えなくなり、最終コーナーに見えたのが、後ろに舶来スポーツカーを引き連れたSP310だったから満場騒然、そのまま周回を重ねて優勝してしまった。
日本初のGPに日産は不参加を決めていたが、NDC会員の田原源一郎が「どうしても出る」と買い込んだSP310を、仕方なくチューニングした。もっとも、チューニングにはアメリカから旧知の片山さんが届けたチューニングキットが使われたそうだ。
いずれにしても、日産のアメリカ市場でのそれからは、勢いを増すばかりで、スポーツカーではポルシェと一騎打ちを始めた。