デボンと聞いて判る人はオジンでクルマ通だろう。正しくはオースチンA40デボン。製造期間は47年~52年。日本占領の進駐軍はアメリカ主体で、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドが少し。終戦直後にいたソ連、中国はすぐに居なくなった。
で、持ち込まれる乗用車の大半がアメリカ車、次がイギリス車というように、兵隊の数に比例していた。だから、日本を走るデボンの数は少なかったが、手頃なサイズで人気はあった。
当時、オースチンの輸入代理店は日進自動車。現在芝園橋際に首都高芝公園入り口があるが、その辺りが日進自動車で、大きな修理工場が併設されていた。
高校時代に友達と一緒に工場に行った時には、A40デボンの他に、A70やアトランティックと呼ぶスポーツカー、そして英軍高官用大型サルーンA125シアーラインを発見して喜んだ。
三菱ヘンリーJ、いすゞヒルマン、日野ルノー、そして日産がライセンス生産したオースチンは同じA40でも、デボンの後継モデルのサマーセットだ。英国製のA40をマイカーで58年頃愛用した。
高校は日吉だが、我々庶民家庭の生徒は電車通学。私は都電を六本木で乗り換えて渋谷から東横線で日吉駅。また目黒から目蒲線自由が丘で東横線に乗り換えるということもあった。
が、ごく僅かだがマイカー通学が居た。二輪組には大森から通う海苔問屋の息子のエーブスター、陸王1200。四輪では、クロスレイ・ホットショットやオールズモビル、マーキュリーも見かけた。
当時、乗用車はアメ車全盛のはずなのに、何故か数少ないはずのデボンが、三台集まることがあった。三人とも同期で,新橋十仁病院の御曹司梅澤文彦。日本橋国際自動車興業の御曹司西村元一、銀座テーラー矢島の御曹司の矢島である。
たしか三年の時だった。忘れ物で休み時間に日吉駅の反対側まで買い物に行くはめになった。少々時間が足りないと思ったら、それを察したのか「俺の車でいってこいヨ」とデボンの鍵を渡してくれたのが梅澤文彦だった。
“三つ子の魂百までも”という諺がある。例の湾岸戦争の時に、ヨルダンから難民救出のために日本の有志が旅客機をチャーターとTV報道の中で「新橋の十仁病院が一機分5万ドルを寄付」、彼の義侠心衰えずと感心したものである。
梅沢のデボンは、先生に知られたくないのか、校舎裏手の雑木の間に頭から校舎に向け目立たぬように駐めてあった。早速エンジン始動、といっても現在とは勝手が違う。
インパネ中央のイグニションノブにキーを差込みON位置まで回転。赤の警告灯の点灯を確認してから、スターターボタンをスプリングに逆らって2センチほど引っ張るとスターターが回り始動するというのが、デボン始動の儀式である。
冷えているときは、始動前にアクセルを元気よく踏みつける。キャブレター内蔵の加速ポンプの力で、マニホールド内にガソリンを噴射して、コールドスタートを助ける仕掛けになっているのだ。
何回噴射、チョークの微妙な引き加減は、エンジンの冷え具合、気温などを肌で感じて決めるが、少々の勘と熟練が必要だった。始動に失敗したときには、トランクからクランク棒を出して、バンパーの穴からクランクシャフト先端に突っ込んで、手で回すことになるが、男の力なら簡単で、間単に回りだす。
いざ出発という段になって問題発生。ギアがバックに入らない。前進すれば校舎にぶつかる。だましたり,力を入れたり、時には静かに、いろいろ試したがビクともしない。
考えてみればデボンの運転はその日が初めてだった。あせっていると運よく矢島が通りかかった。
「馬鹿だねぇRの位置で上に引っ張りあげてから下げれば入るよ」。判ってしまえば簡単、駅の反対側で買い物を済ませて戻ったら、授業は始まっていた。
その日の授業は一階だったのが幸い。窓際の仲間に窓を開けてもらい、静かに教室に滑り込んだはずなのに、教師に見つかり、ひどく説教されてしまった。周りで仲間がニヤニヤと笑っていた。
フォードアサルーンのA40デボンは、水冷直列四気筒OHVで40馬力。最高速度は公称120キロ、ゼロ400m加速が23秒。