【車屋四六】日産オースチン参上

コラム・特集 車屋四六

WWII後、47年(昭22)GHQの乗用車生産禁止令の解除で、日産は戦前型ダットサンで生産再開。トヨタは戦後開発のトヨペットSAを。この間に、たま電気自動車が割って入り、49年には戦前派のオータも生産再開。

で、日産vsトヨタというライバルの戦闘開始。この時点でトップは日産。その日産は、戦争中の技術的空白を短期間で埋めようと取った手段が、外国技術の導入だった。

一方トヨタは、あくまでも独自路線で開発維持。日産は戦前に関係があった英オースチン社とヨリを戻す。また、トラック屋の日野自動車がルノー、いすゞ自動車が英ヒルマンと技術提携して乗用車市場侵入をはかり、それらの登場が53年。

今でこそ英国自動車産業は壊滅状態だが、当時は軽自動車、大衆車にはじまり、世界の王侯貴族金満家相手の超高級車まで、戦前からの老舗が軒を並べる自動車大国だった。

これからは日産に話を絞るが、オースチンとの提携が52年、一号車ロールオフが53年だから、かなりな早業。最初は、ほとんどの部品を英国からのノックダウンだった。

日産鶴見工場で完成の一号車オースチンA40サマーセットは、戦後開発の新鋭モデル。その全部を如何に短期間で国産化にこぎつけるかが日産の課題。その間に最新技術の吸収、そして下請け部品産業の育成で100%国産化に邁進しようとした。

計画は着々と進んでいるかに見えた頃、英本国で思わぬ事態発生。A40のフルモデルチェンジで、A50ケンブリッジに進化してしまったのだ。(写真トップ:オースチンA50ケンブリッジ:広報写真だろうが何故かディーラーナンバー。モデルの裾が長いワンピースは当時の平均的ファッション。ミニなどとんでもない時代だった)

通常このような時には本家は本家と割り切り、旧型を作り続ければそれで済むことだが、目的が最新鋭自動車を造ることと共に、最新技術の吸収だから、金の無駄よりは技術吸収優先を決断、A50の生産に切り替えた。

英国で新型A50の登場が54年。日産A50のロールオフが55年だから、感心する早業だ。その後、国産部品切り替えが進み、100%国産化の達成が56年だから素晴らしい。技術ノウハウの吸収に如何に貪欲だったが判ろうというもの。

A50は、全長4110x全幅1550x全高1550㎜、WB2510㎜。車重1020㎏。直四OHV、1498㏄、50ps/4400rpm、10.2kg-m/2100rpm。四速MTはコラムシフトで、最高速度130㎞。(写真右:国産奨励で岸信介首相もA50に乗る。それまで大臣高級官僚のほとんどは黒塗りのアメリカ車だった)

背が高い車室で大人四人が余裕を持って座れた。私が愛用のA40サマーセットと違って、ブレーキとクラッチペダルが吊り下げ型になったことで、ぐんと踏みやすくなったことを憶えている。

乗り心地も良くなり、英国然とした男っぽいスタイリングで、女に好まれたヒルマンとは対称的に、男に人気があった。性能は、当時の日本製小型車の中では最高だった。誕生当時の値段117万円は、やがて量産効果で徐々に85万円程までに下がり、この間に景気上昇で所得も増えて、売り上げは順調だった。

昭和30年代初頭、政府の国産車愛用の方針で、大型外車を手放した政治家や高級役人が国産に乗り換えたが、首相時代の岸信介がA50ケンブリッジに乗っているのを見た憶えがある。

オースチンA40とA50は、日産ばかりでなく日本の自動車工業に良き影響を与えたが、日産ではその技術を元に開発したセドリックを59年に発売し、それを機にA50は市場から去っていった。

セドリックは先発のクラウンとシノギを削ることになるのだが、その下のクラスでコロナと戦う初代ブルーバード開発にも、当然のようにオースチンで習得の技術が生かされていた。

ちなみにA50ケンブリッジ登場の55年(昭30)に初代クラウン登場。トヨタの天敵ダットサンも戦後開発の110型に。戦後10年、神武景気が始まり、家庭の電化が始まる。ポロシャツの流行、船橋ヘルスセンター開場。更に10年ほどが経つと、隣に船橋サーキットが開場する。この頃の10年ごとの進歩は、いちじるしかった。

 

昭和30年代初頭、政府の国産車愛用の方針で、大型外車を手放した政治家や高級役人が国産に乗り換えたが、首相時代の岸信介がA50ケンブリッジに乗っているのを見た憶えがある。

オースチンA40とA50は、日産ばかりでなく日本の自動車工業に良き影響を与えたが、日産ではその技術を元に開発したセドリックを59年に発売し、それを機にA50は市場から去っていった。

セドリックは先発のクラウンとシノギを削ることになるのだが、その下のクラスでコロナと戦う初代ブルーバード開発にも、当然のようにオースチンで習得の技術が生かされていた。

ちなみにA50ケンブリッジ登場の55年(昭30)に初代クラウン登場。トヨタの天敵ダットサンも戦後開発の110型に。戦後10年、神武景気が始まり、家庭の電化が始まる。ポロシャツの流行、船橋ヘルスセンター開場。更に10年ほどが経つと、隣に船橋サーキットが開場する。この頃の10年ごとの進歩は、いちじるしかった。

オースチンからの学習技術で完成のセドリック:先発クラウンの良きライバル。写真はダットサンクラブのラリー出場車だが何故かディーラーナンバー。まだノンビリとした時代だった