【車屋四六】医者がスポーツカーでやってくる

コラム・特集 車屋四六

世界中の国々に代名詞というものがある。日本的代名詞もある。軽飛行機が墜落すると報道はセスナ墜落を報じるが、セスナは敗戦で禁止の空がGHQに開放されて、最初に新聞社が飛ばしことで代名詞になってしまったのだ。パイパー、ビーチクラフト、ムーニー、ライアン、オースター、エアロンカ、シュド等々、当時の世界にはたくさんの軽飛行機が存在したのにである。

自動車市場で最初の代名詞はラビット。スクーターが走ってくれば「ラビットが来たヨ」と云い、スポーツカーが来れば「MGが来た」と云ったものである。進駐軍兵士が英国製MG-TDをたくさん持ち込み、そのクラシックで可愛いらしい姿が強烈なインパクトを与えたのである。ジャガー、シンガー、トライアンフ、ヒーレイ、オースチン、たくさんのスポーツカーが、当時の日本を走っていたのにである。

MG-TD:日本では50年代に進駐軍兵士が持ち込みインパクトの強い姿が目に焼き付き代名詞となりスポーツカーが来ればMGが来たと云ったものである

WWII前のMGはイギリスでは知られた存在だったが、海外での知名度はそれほどでもなかった。が、日本にも何台か走っていたそうだ。有るオーナーは、開戦と同時に後部に鉄の箱を付けて「これは貨物自動車」だといって、軍の徴用を逃れたそうだ。

90年頃から日本に”ライトウエイト・スポーツカー”なる言葉が甦った。それは、マツダが発売したユーノス・ロードスターの人気によるものと解釈して良かろう。ジャガーやアストンマーチン、フェラーリといった、いわば重量級とも云えるスポーツカーに対する、ライトウエイト・スポーツカーを、戦前からイギリス人はこよなく愛しているようだ。

が、この手のスポーツカーは、居住性無視、最悪な乗り心地、暖房装置もないオープンカーが大半。そんな車を愛するのがジョンブル気質。革ジャンの襟を立て、寒風にさらされながら、少々の雨にはビクともせず、ハタから見れば痩せ我慢をしながら自然と一体になろうと努力しているように見える。私には痩せ我慢としか受け取れないが、ジョンブル的には、それがライトウエイト・スポーツカーに対する解釈なのだろう。

MG社の創業は28年。が、実は24年創業時のモーリスガレージを名乗ったのが、その頭文字でMGと改名したのである。翌29年、MGミゼット誕生。その姿を引き継いで完成したMG-TAが、その後、世界に羽ばたくTシリーズの目でたい門出となる。このTシリーズの元祖は、トヨタ博物館で見ることができる。

戦後、少量のTCが持ち込まれた後、TDがたくさん走るようになった。進駐軍兵士ばかりか、裕福な日本人オーナーも生まれ、三船敏郎や三国連太郎の走る姿を羨ましく眺めたものである。

MGは53年になるとTFに進化するが、これがクラシカルな姿の最後。有力市場アメリカでのジリ貧対策で致し方なかったのだろうが、流線形に変身した。いかにもアメリカ文化に毒された姿である。ジャガーXKシリーズの成功に惑わされたのだろう。2300㎜というホイールベースが唯一TA以来の伝統を伝えているだけで、幅広になったらエーターグリルが僅かにMGの面影だった。

MGAは、直四OHV、1489㏄、SUキャブ二連装で72馬力。うろ覚だが最高速度は160㎞弱。ゼロ400m加速が20秒ほど。T型始まって以来のロードスターに、新たにハードトップも登場した。が、やはりMGはロードスターの方が粋だと思った。

初めての出会いで戸惑ったのはドアハンドルがないこと。困ったなと思ったが、TDの仕掛けを思いだして、ドアが開いた。外から室内に手を入れ、ドア内側の紐を引っ張ればロックが外れるのだ。こんな所にもTシリーズの伝統を見つけて嬉しかった。

SCCJ(日本スポーツカークラブ)の古いメンバー、中村育民が真っ赤なMGAのオーナー。職業は日本橋本町の開業医。患者は気の毒で、来院して先生がガレージに居る時は、観念して待合室で待っている、という良き躾?がしてあった。

ある日のこと、先生が聴診器を耳に付けてボンネットに首を突っ込んでいた。「先生なにやってるの」「二つのキャブレター内に流れる空気音を同じレベルに調整すればバランスOKなんです」と、得意そうに笑っていた。その間は患者は待合室だった。

当時、自動車の赤色は消防自動車専用で、一般乗用車では車検が通らない。で、赤を諦める必要があったのだが、利口な業者がシンナー以外の溶剤で溶いた塗料を赤の上に吹き、車検終了後に拭き取り赤に戻すという手を考えた。中村さんのMGAは、ボンネット中央に白い帯を縦に入れて車検を合格したが、それが気に入ったのか、そのまま乗っていた。

どんな都合か知らないが、長年住み慣れた日本橋本町から田園調布に引っ越したが、医院も一緒だった。一年ほどが経ち、日本橋交差点で信号待ちしている時に見慣れたMGAが隣に止まった。

「先生さぼって日本橋ですか」「いやぁ私は馬鹿でね・患者が引っ越さないので日本橋まで往診なんです」昭和30年代後半の頃だった。

MGA:日本でも人気者だったがアメリカにも輸入されて写真はカリフォルニアで開催されたSCCA(スポーツカークラブofアメリカ)のレース参加車車輌