【車屋四六】日本にもあった本格的三輪乗用車

コラム・特集 車屋四六

前回(何処かおかしい写真が出てきた)で、かすかに写るダイハツ・ビーを次号で紹介すると、うっかり云ってしまったことを後悔している。鮮明な写真がたくさん有るのに、諸元が判らないのである。いつでも探せば、何か出てくるものだのだが、ビーに関しては不思議に出てこないのである。

製造元のダイハツに聞いても詳細は不明。僅かにスリーサイズとエンジン出力が判ったに過ぎない。というのは本稿を書いた18年ほど前の時点だが、その後集まった資料もありリメイクを続ける。

全長1480㎜、全幅1480㎜、全高1440㎜、ホイールベース2400㎜。車重960㎏。ダイハツは既に三輪貨物車、いわゆるオート三輪業界では王者だったから、そのシャシー部品を使って開発したものと当時は思っていた。

が、その後シャシーもエンジンもビー用に開発されたものと判る。上記サイズによれば、全長は当時のサニーハッチバックと同じようなもの、ホイールベースはトヨタMR2に同じ。全幅はスターレットでさえ1590ミリだからビーはかなりスリムだと書いている。

また全長は4070ミリのVWビートルとほぼ同じ(全幅1500㎜、全高1540㎜)だが車重は730㎏。この辺りがモノコック技術をマスターしたVWとは大きな差が出る部分である。

エンジンはオート三輪で長年造り慣れた空冷水平対向二気筒。804㏄で18馬力。三速MTで最高速度は78km/hだった。

ビーのエンジンルーム:水平対向がよく判る。簡単のキャブレターはオートバイと同レベルの単純な物

写真を見るとツインキャブレターと洒落てはいるが、よく見れば当時のオートバイに使われていたような、ごく簡便、原始的構造のキャブレターだと判る。

そんなエンジンの回転軸先端には万一のバッテリーエンコに備えて、クランク棒を受ける切り欠きも見える。ちなみにバッテリーは6ボルトである。

既にお判りと思うが、ビーは後部にエンジンを搭載した後輪駆動、いわゆるRR機構。丸ハンドルによる前輪操舵あたりは、経験豊富なオート三輪車技術が生かされたことだろう。

ビー登場の少し後のダイハツ製オート三輪にも空冷二気筒があるが、こいつは90度V型だからビーのとは違う。で、当時の本紙にはビー専用に開発したのかもと書いてるが、実際にそうだった。

ビーの登場は51年で、52年で生産を止めている。10月に55万円で発売されて、その年の内に88台が売れるという評判の良さだったが、短期間で生産中止の理由を、本紙には敗戦貧乏の日本市場では庶民に自家用車を買うゆとりがなかったと書いた。

が、その後の調べで、当時の混乱した社会情勢、会社自体の資金調達力、その他諸々で、量産体制を準備することが出来なかったので諦めたということが判った。

終戦から6年、泥臭い日本製乗用車の中にあって、ビーは際だつ姿のスマートさ、またプレスの仕上がりの良さに感心したものである。関西ではタクシーで評判が良かったそうだが、東京でも僅かだが走っていた。

ビーを持っている知人が居ないので、直接運転の経験はないが、タクシーには乗った。たしか初乗り料金が80円。宝くじが50円になり一等賞金が200万円になった頃である。

一気筒辺り400㏄もある空冷エンジンだから、騒音はかなりなもので、ドスの効いた排気音が振動となって体に伝わってきたが、けっこう快感だった。

画期的な三輪乗用車が日本市場で育たなかったのは残念だが、それから5年ほどが経ち、登場したのが軽三輪のミゼット。日本では貨物車だが、東南アジアでは乗用車、特にタクシーとして親しまれ、その活躍は今に続いていることは既に報告した。

BEE=ダイハツビーは、空襲の焼け跡が残る日本に鮮やかに咲いた一輪、いや三輪?だが、いずれにしても咲くのが早すぎた。トヨペットSA同様咲くのが早すぎたのだが、会社の経営基盤が確立し、モ少し進歩してからの技術が加われば、ミゼット同様の人気者になる可能性もあったと思う。

太平洋戦争前からダイハツはオート三輪メーカではリーダー格だった。戦後も昭和20年代は流通の主力だった

ビー誕生の51年は昭和26年、当時の日本は、戦後の食糧難解消で食糧配給公団が廃止され、民間放送が始まる。で、CM時代の幕が開く。一方、放送の本家NHKのラジオ体操復活は日本の混乱期の終わりを示すものだったろう。

NHK紅白歌合戦の第一回放送も51年だが、但しTVではない。そんなラジオからは、美空ひばりの「越後獅子の唄」「上海帰りのリル」、久保幸江の「トンコ節」、津村謙の「私は街の子」などが流れてきた。ラジオは真空管時代だが、四球ラジオから五球スーパー時代に進化したのは、民放開局で混信防止目的だった。

民間ラジオ放送局が6社も開局、NHKのTV実験放送開始、昭和26年はそんな時代だった。