ナンチューこと難波瑛彦がホンダに就職して仙台勤務に。彼のオペルカピタンがキャデラックになった経緯は前回。今回はキャデラックの仙台までの回送ということになる。
その日は土曜日だった。昼食を終えて茅場町のカブトオートセンターを出発したのが午後二時頃である。旭化成、さすが大会社社長付運転手が丁寧に使ったキャデラックは、1953年型とはいえ傷一つ無く、快調に走った。
「草加越谷千住の先よ・幸手栗橋ゃまだ先よ」=そうか越谷は千住の先だよ、千住を過ぎても栗橋はまだ先だ・・・多分、江戸時代からの駄洒落に近い言葉の語呂合わせだが、くだらない唄を想い出しながら、日光街道をとばして宇都宮までは二時間。
戦後15年ほどが経っていたが、宇都宮までの国道は舗装が剥がれた所もある約100㎞のひどい道のり。が、さすがキャデラック、少々の凹凸は軽く消化して、そのまま盛岡仙台に向かうが、宇都宮から先は、国道とは思えぬ荒れようだった。
当時日本の最高速度制限は国中60㎞だが、100~120キロで調子に乗って走る。もうじきに福島というところの砂利道の先が下り坂。下りにかかり前方視界が開けたら、なんとネズミ取りだった。
下りの砂利道では急ブレーキは禁物。どうにでもなれと内心ドキドキとしながら近づくと、やおら出てきた年輩の巡査が、こっちへ来いと手招きする。悪質だから別扱いなのか、と覚悟を決めた。
近づくと、かまわずに行けと?手を振っている。一瞬目を疑ったが、恐る恐る加速すると、その年輩巡査は笑顔で敬礼した。
狐につままれた思いで相変わらずの100キロオーバーで、福島には宇都宮から二時間。それから暗くなった夜道を一時間で仙台に着いた。東京→仙台まで五時間。暴走大好きの仲間達誰もが信じてくれない大記録だった。
その夜は、ナンチュウと銀座睦屋仙台支店長の富澤英郎先輩と仙台をキャデラックで飲み歩く。いい加減酔っぱらって入った、蘇州というバカでかいキャバレーで昼間の謎が解けた。
「東北電力の社長と福島交通の社長そして東北大学学長とこの辺りに黒いキャデラックは三台だけ。捕まえても駄目な人達でしょう」とホステスが笑いとばした。福島の巡査は宮城県に四台目が来たことを知らなかっただけのことだった。
WWII後のアメリカ経済絶頂期の始まりに登場したキャデラック1953年型は、そんな背景に登場した最高級車だけに、その大きな四ドアの貫禄ある姿は何処に在っても存在感充分だった。
アメ車の象徴、V型八気筒OHVは5400㏄で210馬力。ハイドラマティック3ATで軽く160キロをオーバー。パワーステアリング、パワーシート、パワーブレーキ、パワーウインドーと豪華装備。
ナンチュウのキャデラックにはエアコンはなかったが、電装品が6Vから12Vになったのも53年型から。ラジオは未だ真空管時代だが、自動選局装置付きで10インチもある楕円コーンスピーカーからは、迫力の音楽を楽しめた。
それから数年、ナンチュウが転勤で東京に戻ってきた。その頃ホンダは、社長の足と宣伝用に自家用機を持っていた。新聞社などを除けば、日本初の自家用機である。
米国製パイパーPA135型ペーサーは鋼管羽布張り四人乗軽飛行機で、ホンダの登録はJA3019。二機輸入されたPA135の片割れJA3018は読売新聞機で、次のオーナーの岡崎農機が倒産、250万円で私のマイプレーンになる。
ある日ナンチュウからの電話で、ホンダのパイパーに乗れるから東雲飛行場に来てくれと云う。飛行場は現在湾岸高速が走る船の科学館が在る辺りだ。写真はナンチュウと白のツナギは彼と仲良し当社の樋口整備士。
ちなみにホンダのパイロットは学生航空連盟で先輩の藤原飛行士(明大出身)そして庭山整備士も旧知の間柄だったが、ナンチュウが勤務中に飛行機に乗れるという間柄が不思議だった。
「やばいんです・オヤジから電話があったら知らん顔で」と懇願する。朝、成城の家の門前に顔見知りの女が人待ち顔・仙台からツケを取りに来たのだろうから慌てて裏口から逃げてきたという。
その日の午後、店に来たので「逃げ切れるのか」と聞くと、すぐにオヤジが出てきて勘定は払ったろう。不名誉が大嫌いな人だから、とニッと笑った顔は、懐かしい昔と変わらぬ学生時代のヤンチャな目だった。
数年でナンチュウはホンダを退職、米国RCA社に就職した。父親の難波捷吾さんは電子工学の権威で当時KDDの参与。KDDはRCAの大顧客のはずだから、息子のために一肌脱いだのだろう。
それから10年ほど後、母校慶応義塾の学園祭で、たまたまニューヨーク在住エンドーエンタープライスの遠藤社長・仲間内ではエンコウに出合ったら、ナンチュウはアメリカ在住の同胞に評判が悪い。「ゴルフで稼ぎまくっているから」ということだった。