前回、ベテラン時代に内燃機関が大進歩と書いたが、ようやく一人歩きを始めたガソリン機関に付きまとう、ウイークポイントが幾つかあった。キャブレーション、イグニション、ルブリケーションなど。またエンジンは、不完全なサスペンションからの振動やショックで破損し、自動車とは、長距離ドライブから、何時も無事に帰れるという保証がない無責任きわまりない乗り物だった。
無責任といえば、1961年にリリースされて80万枚という大ヒットの、植木等のスーダラ節というのがある。青島幸男元都知事の作詞で、その一節に「判っちゃいるけど・やめられない」という一節がある。ベテラン時代の無責任な自動車をドライブする新しがり屋、当時の金満家達の心境は正にそれ、無責任は承知の上だ。
不具合は、どんどん改良進化したが、近代的キャブレターを開発したのは天才マイバッハ。それまではいい加減なもので、中には燃料タンクの中に排気管を通したら、どんどんガソリンが気化するはず、という物騒なものまであった。
多くの天才達が頭を痛めたのはイグニションである。ダイムラーを初め、初期のエンジンの着火システムはホットチューブ。こいつは気筒内に貫通した白金のチューブを、外からバーナーで赤熱させ気筒内に熱を伝え、吸気に着火するという仕掛け。現在の焼き玉エンジンの始動時に似ている。
ここでD&B社が登場する。蓄電池+高圧発生コイル+コンタクトブレーカーポイントという、高圧イグニション装置の採用だ。現在のトランジスタ型イグニションが登場するまでの何十年かの長きにわたり、一世を風靡したシステムの初採用は、ドディオンブートン社だった。
が、このシステムも自動車や動力用エンジンには好適だが、小型軽量を求めるバイクには不向き。で、1895年に開発されたのが、シムスの低圧マグネトーだが、こいつは性能が低かった。
しかし技術は日進月歩の例え通り、1898年には早くも、高性能化商品が登場する。ロバート・ボッシュの高圧マグネトーだ。で、これが大当たり。1914年頃になると、ナント年間200万個も売り上げるほどの勢いで、その90%を輸出して、今日のボッシュ社の基礎が固まった。
このマグネトー型イグニションは、WWIIを挟み世界中のバイクで使われた。セスナやパイパー、ビーチクラフト等で知られる、軽飛行機の空冷エンジンなんか、今でもマグネトー方式だ。
登場してから暫くの間、自動車は馬車と兄弟のようなもので、サスペンションは板バネ、車輪は木製ホイールに鉄環か革張り、ゴム等だから振動が激しく、時速25キロ以上では乗っていられないという代物だった。
やがて、イギリスのダンロップが空気入りタイヤを開発するが、子供の自転車用に開発したもので、自動車用には興味が無く、というより無関心で気が付かなかったと云う方が良いだろう。で、特許を格安で、売り渡してしまった。
空気入り自動車タイヤの将来性に目を付けたのは、フランスのミシュラン兄弟。で、革にゴムを貼ったり、と新技術を開発、改良したが、いずれも長持ちしない落第商品。そこで、発想を180度転換した。長持ちしなけりゃ「どんどん替えればいいじゃないか」と。で、登場したのがスペアタイヤ方式だった。
馬車は、自身の存在を知らせるために、オイルランプを付けていた。スピードが遅いから、前方路面を照らす必要はなく、歩行者やすれ違う馬車が認識すれば良かったのだ。が、スピードが出る自動車では、前照灯が必要になってくる。もっとも、ローソクのランプで、レースを走りきった強者も居るには居たのだが。
で、新兵器登場。タンク内のカルシュームカーバイドに水滴を落とし、発生するガス(アセチレンガス)に点火すると、当時としては驚異的明るさを生みだしたのである。このカーバイドランプは、携帯型発電機が普及するまで、二十年ほど前なら縁日夜店などで、いくらでも見られた照明道具だった。
さて、再三登場する内燃機関の親、オットー・ダイムラーについて少し振り返ってみよう。大人になったダイムラーは、初め蒸気機関車工場に務めていたが、退職して諸国漫遊の旅に出たのが1861年。見聞知識を貯め込んで、1863年ドイツに帰国して、終生のパートナーとなるマイバッハと出合う。
ダイムラーは、1872年にドイツ・ガスエンジン会社の支配人に就任すると、直ぐにマイバッハを主任技師に据えるほど、彼の実力を高く評価していた。惚れ込んでいたという方が正しいかもしれない。そして、1882年に、二人揃ってガス会社を退職したのが、1885年に始まる、世紀の大発明の出発点だった。
同じ頃登場したカール・ベンツのエンジン回転は、毎分250回転ほどだったが、ダイムラーのエンジンは800回転と大幅な差を付けていた。その辺りは、マイバッハの技術力によるものだったろう。彼の高い技術力は、1898年登場のフェニックスダイムラーという車が、世界中の車を全く寄せ付けないほどの高性能を誇った事でも証明できる。
マイバッハは天才技術者ではあったが、経営センスはまるでなかったようで、ダイムラー死後のダイムラー社は、彼の経営でジリ貧状態に落ちていった。が、彼の真価を知るツェッペリンが引き抜き、飛行船と飛行機用のエンジンを開発、数々の傑作を残す。天才ぶりを発揮したマイバッハのエンジンは、WWI中の軍用機では、最大の威力を発揮して連合軍を悩ませ、その後世界中に売られて、日本にもやって来ている。