この稿を執筆している本日は、2008年12月23日。このところ、生誕50年ということで、東京タワーに注目が集まり、連日TVに、ラジオに、また新聞雑誌に登場する。
昔から”灯台元暗らし”と云うように、小生、目の前の東京タワーの知識はうとく、タワーに登ったのは一度だけ、それも建ってから、かなり後のことだった。
東京タワー、正式には日本電波塔だが、愛称を公募したら、全国から多数の応募。日本塔、平和塔などの多数派を押しのけて、応募中0.26%と少数派の”東京タワー”に決まったのは、審査員の一人、徳川無声の「これが東京にふさわしい」の一言だったと聞く。
タワーが建つまでは、チャンネルを変えるたびに、TVの上のアンテナをグルグル回して、ボケのない映像を探さなければならなかった。NHK、NTV、TBS、東京には各局の電波塔が建っていたからだ。タワーが建って、サービス範囲が広がり、アンテナを回す必要もなくなった。(写真右:完成した東京タワーだが、上の展望台はない)
ちなみに、当時は日本の経済成長のせいで鉄不足。で、朝鮮の戦場からの壊れた米軍戦車も、溶かして鋼材を造ったそうだ。
登ったのは一度だけだが、東京タワーに対する親しみは人一倍。というのは、初め、変なものが地面から伸び始めた頃からの付き合いだからだ。
私の住まいは東京都港区東麻布で、町名変更前は「麻布区森本町」だった所。
80年までは日本家屋だった、我が家二階の東窓から眺めていたら、ある日、高台に鉄の櫓が二本伸びはじめ、日に日に伸びて、左右合体し、更に上に向かって伸びていく。そこが、タワーのベースだった。
で、何だろう?と思って、取り敢えずキャノンIVSに、当時は高価で貴重な富士カラーフィルムを入れて撮影した。
かつては、日本橋を起点に、新橋から品川に通じる道路が国道一号線。その一号線と札の辻で交叉、皇居の方に向かう道は桜田通り。警視庁を左に見る終点が、桜田門だからだ。幕末、井伊大老暗殺で知られる所でもある。
昭和20年代、日本語が読めず、ローマ字が面倒な進駐軍が、日本中の道路にアルファベットを付けてしまったが、桜田通りは”Bアベニュー”で、白ペンキで横長の標識が交差点ごとに建っていた。三田の慶応義塾の方から、赤羽橋、飯倉の坂を登り切り、右折すると水交社、その先がタワーの建設現場である。
タワーの所は、明治の頃から、やんごとなき人達の社交場”紅葉館”の跡。水交社は白いスペイン風の建物で、終戦までは日本帝国海軍の将官や将校達の社交場、戦後は進駐軍に接収されて、マソニックビルと名付けられて秘密結社が使っていた。
秘密結社といっても近頃ではオープンで、フリーメイソンなら判る人も多いはず。いずれにしても世界的結社で、現在会員は600万人とも云われ、源流は12世紀、テンプル騎士団の生き残りが、石工の権利自由目的に組織した英国のギルドだと聞く。ロータリークラブの原型と云う人もいる。
日本上陸は慶応年間で、現在会員は数千名と云われている。鳩山一郎、世界的木琴奏者の平岡養一には東京本部で何度か合った。外国の著名会員では、米国大統領のワシントンやルーズベルト、ベンジャミン・フランクリン。マッカーサー、ディズニー、マリアテレサ、ナポレオン一世、独フレデリック二世、英エドワード七世、レーニン、モーツアルト、ゲーテ、等々際限がない。
石工のギルドらしい、紋章のコンパスと定規を知る人は少ない。が、実は世界中の人が慣れ親しんで見ているシンボルがある。米1ドル札裏左のピラミッド。光りを放射する頂部の中に眼が、という変わった図案が、フリーメイソンのシンボルマークとは、聞かなければ判らないだろう。
現在、水交社は森ビルになったが、東京ロッジは健在のようで、道路に面して入り口があり、其処で紋章を見ることが出来る。
昭和30年代、私は東京ロッジのボス、O.R.スチュアートに可愛がられていたので、会員でもないのに木戸御免、夏にはパスを貰ってプールで泳いでいた。
コカコーラを飲んでいるだけで優越感が味わえる時代に、金髪赤毛青目玉が泳ぎ、日向ぼっこをする専用プールで泳ぐ日本人、その快感は格別だった。いまにして思えば、私は幼稚だった。
さて、水交社の在る飯倉交差点から神谷町を過ぎ、櫻川七丁目をちょいと右に入った日仏自動車(寺山自動車)は、シトロエン、独グートブロートの輸入代理店で、日本のプリンスも売っていた。
桜川町を過ぎて、更に歩き続けると、もう隣が琴平町という虎ノ門寄りに、日本アメリカン自動車があり、通りを隔てて反対側、金比羅大神宮の大きな鳥居の手前が、新朝日自動車である。
日本アメリカン自動車は、当時、東京にたくさんあった輸入外車ディーラーの中では、一番小さな店だったろう。ドイツのボルグワルドハンザと、アメリカ製では珍しい小型のクロスレイと呼ぶ乗用車を売っていて、それを店頭に展示すると、脇を人が一人通り抜けられるだけというような、小さな間口の店だった。
隣が「魚勇」という魚屋でかなり長い間営業していたが、その後は小料理屋で、いまでも前を通ると懐かしい。
反対側の、新朝日自動車は、ポンティアックの輸入代理店だった。
古く暗い感じの日仏自動車、間口の狭い日本アメリカン自動車と比べると、新朝日自動車はショールームが二階まで吹き抜けの総ガラス張りで、明るくモダンな店だった。
桜田通りには、このように三軒の外車ディーラーがあったが、更に先の、虎ノ門交差点を左に曲がって、赤坂見附方面に向かう通りは、軒並み自動車ディーラーが並ぶ、自動車屋のメッカというような街並みになる。