【車屋四六】華のパリ道中記

コラム・特集 車屋四六

1966年(昭和41年)頃の日本は、東京オリンピックも終わり、もう戦争の傷跡もほとんど消え、世の中明るさを取り戻していた。東京も、あちらこちらに散在した進駐軍の施設やキャンプも整理統合され、街を歩くGIも減り、かつてのふんぞり返った勝者の態度もほとんど見られなくなった。

我々が、アメリカ兵をGI=ジー・アイと呼んだのは、米軍の呼び方そのままで、GI=ガバメント・イッシュ=兵隊は、住居食事はもちろんのこと、下着、靴下、シャツ、靴、ユニフォームなど、全てが政府の支給品、云い替えれば全部政府丸抱えだったからの呼び名だったのだ。

1966年は、呪われたように、ジェット旅客機受難の年だった。2月4日、札幌雪祭りの団体客を乗せて、千歳空港を飛び立った全日空(ANA)のボーイング727が、着陸寸前の最終旋回中、羽田空港沖に墜落、133人が全員死亡。

その一ヶ月後の3月4日、カナダ太平洋航空(CPAL)のダグラスDC8が、濃霧の羽田空港着陸寸前に防波堤に激突、乗客72人中64人が死亡。

明けて3月5日、羽田を離陸、香港に向かう英国航空(BOAC)のボーイング707が、空中分解で墜落、124人死亡。原因は機長のサービス精神で、名峰富士を間近に見せようと、富士山に近づき乱気流に巻き込まれたものだった。

暫く間を置き、11月13日、大阪から松山に向かうANAのYS-11が伊予灘に墜落、50人死亡。これにはオマケが付いて、捜索中の大阪府警とANAのヘリ同士が空中で衝突、墜落、乗員4人死亡。

当時日本は、飛行禁止の空を取り戻し、TVもカラーになり、世の中明るくなったとはいえ、世界から見れば未だ貧乏小国。外国製品を舶来(はくらい)と呼んで珍重、外国旅行をすると洋行(ようこう)と称して羨ましがったものだった。

そんな貴重な洋行を、幸いなことに私が体験したのが、1966年だった。ちなみに、1966年に洋行した日本人の総数は、わずか30万人で、ほとんどが商用渡航だった。

未だ、日本が貧乏だからというのも一つの理由だが、主な原因は日本政府の外貨保有量が少ないことだった。一昔前の中国などを見れば察しが付くことだろう。

が、曲がりなりにも一般市民の渡航禁止が解けて、JALパックなど、海外観光旅行も出来るようにはなったが、観光目的で出発する私に割り当てられた外貨は、たったの500ドル。で、500ドル受け取ると、パスポートに「500ドル売却済」のスタンプで、二度と買えない仕掛けになっていた。

今のパスポートにはないが当時は渡航費用証明ページがあり旅行小切手500米ドル売却のスタンプが。また別ページに持ち出し日本円金額も記載されている。パスポートは帰国で失効

いくら1ドルの為替レートが360円時代だったとはいえ、これではどうしようもない。もっとも「外貨を稼いできます」という商用目的の人達は、一人2000ドルだった。

でも、それ以前に外国に出ようとすれば、目的国の企業や個人から滞在費一切の保証書と、往復の航空券が送られてこなければパスポートをくれなかったのだから、500ドルでも大手を振って外国に出かけられるというのは、大きな進歩だったのである。

そのパスポートも、日本に戻ると同時に、無効になる一回こっきりのパスポートで、何度も使える数次旅券を持てるのは、国際線パイロットかクルーくらいなものだった。

当時は、大卒初任給が2万円を越えた頃だから、500ドル=18万円は大金ではあるが、安売り切符などない時代のロンドン・東京往復航空運賃が1500ドル=54万円。なのに500ドル、なんとも頓珍漢な外貨割り当てと渡航許可だった。

私の場合は、日本ベストドライバーコンテスト優勝の副賞が、パンアメリカン航空、通称パンナムのロンドン往復だったから、一つ問題解決。小遣いとして、やはり協賛のシェル石油から20万円を戴いたが、500ドルしか買えないのだから困った。

で、足りない分はヤミで調達することに。まず、前に登場したスチュアートおじさんから500ドル。(米軍は軍票を使っていたので、本国ドル、通称グリーンバックは手持ちが無く、帰国した時の使い残しを仲間から掻き集めてくれた)

途中まで一緒の大橋浩一グッドイヤー宣伝部長が「僕は1000ドル有れば」と羽田空港の銀行で1000ドルを分けてくれて、合計2000ドルを懐に、洋行に出たのである。

ちなみに正規の500ドルはトラベラーチェックに(当時クレジットカードなど無い)。1500ドルは100ドル紙幣で体中に分散した。羽田の出国でバレたら困るし、初めての洋行、ヨーロッパにもゴマの蠅が居ると考えた貧乏国民の知恵だった。

当時は冷戦たけなわ、シベリア上空など飛ぼうものなら即撃墜だから、航空路は南回り。パンナムの120人乗りボーイング707は、香港、タイ、インド、テヘラン、未だ王政だった頃のイラン、平和だった頃のレバノン、点々と着陸を繰り返しながら、終着のローマに着いたら、羽田を飛び立って27時間経っていた。

世界初のジェット旅客機、イギリスのコメット機が就航した時、ロンドン東京の飛行時間が30時間と威張っていたのだから、僅か数年で更に早くなっていたことになる。が、ジャンボ機登場前の初期のスリムな機体は、航続距離が短いから、世界中何処に行くにも、点々と着陸を繰り返す必要があった。

そしてローマからパリへは、一足飛び、オルリー空港には、グッドイヤー社広告代理店のムッシュ・シャルドー社長が出迎えてくれたが、続きは次回に。

世界初のジェット旅客機はデハビランド・コメット/英:全長28.4m、全幅35m。全備重量45t。巡航790km/h。乗員4~5名、乗客36~48名。1万m上空巡航のノウハウがなく、予圧キャビンの疲労で空中分解、徹底原因追及中にボーイング&ダグラス登場で開発した新型機は敗退する