ポルシェ906カレラ、こいつは、日本の古いレーシングファンには懐かしい。1967年に開催された第4回日本グランプリで、富士スピードウェイを疾走して優勝したからである。優勝したドライバーは、ヨーロッパのサーキットでF3に乗り活躍していた、生沢徹だった。
ちなみに、そのレースで2位、3位、4位は、日産ファクトリーチーム所属の高橋国光、砂子義一、北野元がドライブする日産R380A-IIだった。
ポルシェ906カレラとは、1966年に誕生したばかりの、世界でも最新鋭のレーシングカーだった。66年は、日産とプリンス自動車が合併した年。ということで、第三回グランプリで優勝したプリンスR380が、第四回では日産R380A-IIということになったのである。
ポルシェ906には愛称があり、カレラ6(シックス)と呼ばれていた。
カレラ6は、第2回日本グランプリでの名勝負、スカイライン2000GTとの勝負に勝って優勝した、ポルシェ904GTの後継モデル。906は、お定まり、レースの公認(ホモロゲーション)を受けるために、50台生産された(後に15台追加)。分類では、グループ4に属するスポーツカーだから、公道も走れるレーシングマシン、俗に、ストリート・ゴーイング・レーサーと呼ばれる高性能マシーンである。
開発を担当したフェルディナンド・ピエヒは、現在VWアウディ・グループの総帥で大株主でもあるが、ポルシェ家の親族だということも知られている。
チューブラーフレームにガルウイングドアのボディーはFRP製で、エンジンは911用の空冷水平対向6気筒、SOHC、1991ccをチューニングして、その出力は、210ps/8000rpm、20kg-m/6000rpmというハイパフォーマンスを引き出していた。
ちなみに、第4回日本グランプリでライバルとなる、日産R380A-IIのエンジン出力は220馬力でカレラ6を上回るものの、車体重量で差を付けられて、誰の眼からも戦闘力ではカレラ6の方が上回って見えた。
最高速度280km/h以上と発表されていたが、ルマン24時間レースに出場したロングテール型では、300km/h近いスピードに達していたらしい。
カレラ6は誕生した66年に、デイトナ24時間レース、タルガフローリオなど著名なレースで活躍して、66年度の2リッタークラスで、コンストラクターズ・チャンピオンに輝いた車でもある。
そんな実力の持ち主が、必勝を期して第4回日本グランプリにエントリーしたものだが、実は生沢徹以外に、滝進太郎と酒井正のために、合計三台のカレラ6がエージェントの三和自動車の手で輸入されていた。
ちなみに、酒井のカレラ6は日本グランプリのレース中に、最終コーナーで日産R380の追い越しに失敗、250km/hの高速でフェンスに激突して大破している。
一方、滝慎太郎のカレラ6は、その後のグランプリレースに2回ほど出場してから、海外に売られていった。優勝した生沢用のカレラ6は、その後10年間ほど日本のサーキットで活躍してから、現在は、マツダコレクションの所有になっていると聞いている。
カレラ6が登場、活躍した66年=昭和41年は、世界の超人気アイドルのビートルズが来日した年である。まだ成田空港は無く、国際線の発着は羽田空港だったが、何故か彼らはBOAC=英国海外航空ではなく、JAL=日本航空で飛んで来たのが不思議だった。公演前、訪問先日本への気配りだったのかもしれない。
彼らの宿泊先は東京ヒルトンホテルだったが、そのホテルは後日キャピトル東急ホテルになり、現在は取り壊してなくなっている。
気の毒だったのは、ビートルズ達。街で騒動が起きては大変と外出禁止で、かわいそうにホテルに缶詰となってしまった。
6月30日から三日間の武道館公演では、ブルージーンズやドリフターズが前座を務めた。そして合計5回の公演は、1ステージが正味たったの35分間と短かった。が、TV放映権も含めて9000万円という、当時としては破格のギャラを稼いで、次の公演地、マニラへ去っていった。
たった35分間の公演でもチケットの売り上げが1億円もあって、呼び屋が儲かったそうだが、おカンムリだったのが警視庁である。
6520人もの少年少女を補導した厳戒態勢の警備費用に、8350万円も掛かってしまったのである。