60年代をビートルズエイジと呼ぶ人がいる。60年代初頭にバンドを結成して人気急上昇→ヒットを連発しながら、60年代末期に解散したからだ。
そんなビートルズが来日したのは人気絶頂期の66年6月だった。で、当局は異常人気で予測される事故防止のために、武道館の1階席には客を入れず、延べ8400人の警官を動員して厳戒態勢を敷いたものだった。この厳戒態勢を、後に70年安保の予行演習だったのだと云う人も居た。
ビートルズ人気で火が付いたのが、日本のグループサウンズ(GS)だった。“いつまでも/ザ・サベージ”の初ヒットに続き“想い出の渚/ワイルドワンズ”もヒット。特に印象に残るのはザ・スパイダースの“夕日が泣いている”→ミリタリールックのかまやつひろし、堺正章、井上順、田辺昭知、井上尭之、加藤充、大野克夫のメンバーの中には、今でも活躍している人が居る。
ビートルズ来日の1966年=昭和41年には、日本の自動車市場にも異変が起こっていた。本格的な大衆車時代の到来、日本にマイカー時代の幕が上がったのである。
4月サニー登場、11月にはカローラが登場し、両車の大ヒットで大衆車市場が本物になったことで、日本のマイカー時代が始まったといっても過言ではなかろう。
ちなみに当時のライバルとなる小型車というと、三菱・コルト、スバル・1000、ダイハツ・ベルリーナ、マツダ・ファミリアなどだったが、このライバル達だけだったら、マイカー時代の到来には、もう少しの時が必要だったろう。
もっとも、スズキが55年にスズライトフロンテを発売以来、実用的軽自動車を各社が量産して、それが大衆車時代到来の点火剤になり、61年にパブリカ、そして前記ライバル達の登場で、マイカー時代到来の下地が整っていたのである。
一方で、トヨタの軽自動車観は「自動車市場に新規参入する企業の踏み台的存在で、老舗の取り組むものではない」だった。で、軽を上回る性能、量産効果で軽より安い価格、そして輸出も念頭に開発されたのがパブリカで、月販目標1万台で軽より安い38万1000円を実現した。安い値段ゆえに「1000ドルカー」との評判も立ったほど。当時の為替レートは1ドルが360円だから、1000ドルは36万円だった。
が、パブリカは意に反して売れなかったが、後半デラックスを追加して、人気を取り戻した。
人気回復の原因を追及すると“大衆車は質実剛健安価だけでは受け入れられない”ということだった。これは日本人の性格からきたもので、マイカーは長年の夢の実現、たとえ収入は少なくとも、夢の実現には贅沢が必要だったのだ。そんな学習が後のカローラ開発に活かされたのである。
しかしダットサンからブルーバードと、市場を走り続ける日産には失敗経験が少なく、質実剛健高性能安価を目標にサニーを開発し、楽勝を疑わなかった。発売当初、スタンダード41万円、デラックス46万円で、登場したサニーの人気は鰻登りだった。
が、カローラ開発中の長谷川龍雄主査は、サニーを見て「勝った」と思ったそうだ。
実は、サニーの仮想敵はパブリカだったようだ。こいつはコロナ開発時の仮想敵がダットサンだったことの二番煎じだった。結果的にサニーもコロナと同様に負け犬的存在となる。初代コロナが登場すると仮想敵のダットサンはブルーバードへと進化していたのと同様に、サニーの仮想敵パブリカはカローラにすり替わり、しかも100㏄の差を付けられていたのである。
サニー登場の66年、私は登場したばかりのサニーを駆って、全日本ベストドライバーズコンテストに挑戦、優勝して、日本一運転手の栄誉を手にした。
サニーの性能、運動性は抜群だった。ラリー中、曲折する丹沢の山中や細い林道では、ベレットGTやスカイラインGTにも負けなかったし、ジムカーナでは抜群の軽快さで他車を寄せ付けない、すばらしいリッターカーだった。
数年後に、カローラとサニーを並べてみたら、無駄を削ぎ落とし軽量高性能のサニーに対して、カローラには今でいう自動車らしさがあり、結果ユーザーはカローラの方を選んだのである。いずれにしても、この両雄対決がマイカー時代の幕を開けたことはたしかなことである。