平凡パンチ創刊の頃―昭和39年

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平凡出版(現マガジンハウス)のユニークな男性向け週刊誌「平凡パンチ」の創刊は、1964年/昭和39年4月28日のこと。

パンチのターゲットは団塊世代男性で、ファッション・風俗・スポーツなどの情報提供だった。さらにニッポン放送深夜番組「ザパンチ・パンチ・パンチ」も評判を呼び、話題の三人娘パンチガールには松田聖子が居た…で、時流に乗ったパンチは評判を呼び、66年には月販100万部を突破した。が、やがて時流から見放されて88年に休刊に追い込まれる。89年Newパンチザウルスの名で復刊するが、残念なことに4ヶ月でまたもや休刊した。

さてパンチの創刊は東京オリンピック開催の年。戦後の貧乏経済が一段落し、マンションブーム、東海道新幹線開業、海外旅行自由化で最初のツアーは欧州17日間で料金71万円(大卒初任給2万円)。全国に1658万台普及したTVでは、NHKの「ひょっこりひょうたん島」や横綱大鵬優勝四回の大相撲などが大人気だった。

平凡パンチ創刊号の表紙/週刊・50円。

そんな64年の自動車業界では、先ず恒例の全日本自動車ショーが第十一回目を迎えて、東京モーターショーと改名した。

また、ようやく欧米のレベルに追いついた日本の乗用車の開発目的で、茨城県谷田部に高速試験場が開設された…1周6㎞オーバルコースのバンクは、手放しで190㎞走行が可能だった。

同じころ登場した新型車を登場順に並べると、クラウンエイト、いすゞベレット1600GT、プリンス・スカイライン2000GT、三菱デボネア、トヨペットコロナ、日野コンテッサ1300、マツダ・ファミリアだった。

前年開場した鈴鹿サーキットで、64年に開催した日本グランプリレースにより火が点いたモータースポーツのせいで、スポーティー車の登場もこの頃から。65年に船橋サーキットが開場し、66年には富士スピードウエイも開場する。

開場したばかりの船橋サーキット:プリンス・スカイライン2000GTとドライバーズミーティング中の選手達。

パンチが誕生したのは敗戦から19年後。立ち直った日本経済が良好に成長を始めたころで、永六輔作詞・中村八大作曲♪幸せなら手をたたこう♪が坂本九の唄で巷に流れ、若い男はアイビールック、女は「みゆき族」が流行ファッションの最先端だった。

ちなみにみゆき族とは、銀座みゆき通りをニットウエア、ロングスカートにペッタンコ靴、ノースリーブで歩く女達が起源。今でこそ女性がヘソを出しても気にならない世の中だが、当時の男達はノースリーブでも嬉しかった。が、65年英国に登場したミニスカートが日本に上陸すると、男達の歓びは更に増したのである。

日本のモータースポーツ熱の点火と同時期誕生のパンチだが、肝心の自動車記事を書く人物がいない。そこで白羽の矢を立てたのが三栄書房の編集で腕を振るっていた星島浩で、彼がパンチの車部門で腕を振るったことを知っている人は少ない。

日本初の高速周回路を持つ試験場JARI/ 1980年代筆者空撮:トヨタ2000GTの国際記録更新、いすゞアスカ・ディーゼルの世界記録更新なども此処で誕生した。我々の新車試乗や試験でも思い出たくさん。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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