【車屋四六】トライアンフTR-2

コラム・特集 車屋四六

{〒}こいつは誰でも知ってる郵便マークだが、1887年=明治20年に逓信省が制定した。その前は{T}だったのだが、外国では料金不足の略称と判って変更という経緯がある。

同じ年、英国でトライアンフ社が創業、といっても自転車製造で、1902年になるとモーターサイクルの製造も始め、こいつが世界の有名ブランドに成長する。

そんな老舗トライアンフ社が、いよいよ自動車製造に乗り出すのが23年だが、高級車でなく軽快なロードスターの人気が高い会社になった。

そしてWWⅡ末期にスタンダード社と合併して、スタンダードトライアンフ社を名乗るようになり、終戦後はお定まりの戦前型での自動車生産再開となるが、英国政府奨励の外貨稼ぎの産業として、主に米国向け輸出に精を出すことになる。

で、米国市場で、MG-TCやTD、オースチンヒーレイ、ジャガーXK-120など、一連のスポーツカーが人気者になるのを見て、乗り遅れてはと、驚くほどの短期簡で開発されたのがTR-2だった。

誕生は53年で、55年にTR-3にバトンタッチするまでに、8628台が米国に輸出されて、米国スポーツカー市場に、トライアンフのブランドを定着させるのに成功した。

ここで、マニアが気になるのは、TR-2の前に当然あるであろうTR-1とは?どんな車かということだ…実はTR-1は幻の車…TR-2急遽開発の前段階で試作されたプロトタイプに、後から名付けたものだから、市販モデルならTR-2が初代なのである。

TR-2の後姿だが、見事なレストアぶりだった

{100マイルカー}がTR-2の売り文句だった…もちろんヒーレイやジャガーは100マイルカーだが値が高い、売れっ子のMGに100マイルは無理、ということで「MGより少々高いが100マイル出るよ」という開発コンセプトで誕生したのがTR-2だったのだ。

54年になるとオーバードライブ機構が組み込まれて最高速も172㎞に上昇、燃費が9.2km/ℓで「素晴らしい」と英国の専門紙が褒めそやしていた。

日本市場ではTR-3の方が多かったが、TR-2も進駐軍兵士が持ち込んでいたから、我々年寄りには懐かしい車である。

TR-2が誕生した53年は昭和28年、日本のテレビ時代の幕が開いた年である。2月1日午後2時・NHKが本放送を開始…が、放送が始まったのに、本格的国産受像器がまだだった。
で、5月通産省は、テレビ国産化確立対策を決定し、開発銀行から20億円の開発融資斡旋をすると発表した。

一方、民間放送一番乗りは8月20日放映開始の日本テレビだが、直前の女子アナウンサー募集に応募した500名から最終選考に残った53名に「受像器に耐えうる容姿と愛嬌を満たすのは僅か2~3名」と報道…いまなら、たちまち大騒ぎになりそうな無礼きわまりない報道である。