エノケン・ロッパ・シミキンと云えば、昭和の三大喜劇王である。
シミキンは、美空ひばりの才能を見抜き単なる物真似歌手から大歌手へ育てた人物だが、54才という若さで早逝した。
そのころ{うちのテレビにゃ色がない}という、エノケンのTVCMが話題になっていた…登場したてのカラーTVのCMだった。
66年/昭和41年のことだが、敗戦から20年を経て日本に元気が出はじめて、庶民願望の三種の神器もグレードアップ{カー・クーラー・テレビ}…テレビは、それ以前の三種の神器にも入っていたが、66年になるとカラーTVに昇格したのである。
もちろんカー/乗用車だって「持てれば幸せ」という時代は過去の願望で、マイカーにも差別化が求められ、格好良さを各メーカーが競いはじめた時代も始まっていた。
そんな時代の66年10月1日午前10時、茨城県筑波の谷田部高速試験場の周回路で、一台の黄色いGTが走り出した。ドライバーはトヨタ・レーシングチームのボス細谷四方洋だった。
目的はトヨタの世界記録挑戦だった…世界記録は、事前に国際自動車連盟に挑戦を宣言、過去の世界記録を1%上回ることで完成、公認されるものである。
その記録の最終目標には、1万6000㎞という長丁場もあることから、細谷の他に、トヨタファクトリーの猛者、田村三夫、福沢幸夫、津々見友彦、鮒子田寛と、蒼々たる顔ぶれが控えていた。
ちなみに1万6000㎞というと、当時のルマン24時間レースで走る、三倍ほどの距離ということになる。
話しはさかのぼりトヨタ2000GTのデビューは、第13回東京自動車ショーで、レースのデビューは66年5月の第3回日本グランプリだった。
そのGP出場車は、ポルシェカレラ6、プリンスR380、ロータスエリート&エラン、アバルトシムカ、ダイハツP3、ジャガーXK-E、コブラ427、フェアレディー、トヨタ2000GT&RTX/コロナ。
レースの下馬評は、第2回の雪辱をはかるプリンス勢とポルシェの対決で、性能ではR380を上回るカレラ6が有利だったが、結果は作戦勝ちでR380の1,2位独占、3位にトヨタ2000GT細谷という結果…専門家は性能面でトヨタ2000GTに勝ち目なしだったが、給油回数の少なさで、思わぬ拾いものという結果になった。
元々長距離ランナー的トヨタ2000GT の性能が遺憾なく発揮されたのは、GPのあと6月開催の鈴鹿1000㎞レースで、トヨタ2000GTの初優勝となる。優勝は福沢幸夫&津々見友彦だった。
ちなみに私は、JAFスポーツ委員会から派遣の審査委員長で、競技長は古賀信生だった。
さて、トヨタ2000GT開発の目的は、高性能スポーツカーで利益を、というものではなく、自動車後進国日本、そしてトヨタを世界に認めさせようという魂胆で開発されたものだった。
当時それをやるには、ルマン24時間レース優勝か、世界記録樹立が手っ取り早い道だったが、トヨタは後者を選んだのである。
そして問題の世界記録挑戦の詳細は、次回に。