片山豊よもやま話-11

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日産というより片山さんの豪州ラリー挑戦は、ダットサン210型2台。昔から世界では競争自動車のドライバーは紳士で尊敬の対象。そこでオトッツァンは参加ドライバーに教養・マナーが身についており、競技経験もあるSCCJ会員をと考えていたら、日産から横槍が入った。

労働組合が、日産のイベントに外部の人間起用はけしからんというのである。片山さんも日産の月給取り、それには従わざるをえず、ドライバーは実験部からということで4名が選出された。

片山さんは、スタート直前のドライバーに「速く走るな、追い越すな」と厳命した。さぁこれからレースという時にふさわしくない言葉だが、場数を踏んだ世界の強豪相手に勝つつもりなど毛頭なく、日本の悪路でタクシーが鍛えた、トラックみたいな4輪リーフスプリングは頑丈、ユックリ走れば壊れるはずがない、完走すれば良いという考えだったのだ。

もっとも高度にチューニングされた強豪達が身軽に出発する中、補修部品工具など山積みで車体が沈んだダットサンに早く走れといっても無理な話しだった。勇ましい排気音で軽快にとびだす外国勢は、人も機材も豊富で先回りして待機するサービス隊と援護体制万全「性能や経験知識ばかりでなく貧富の差が歴然だったよ」と笑っていた。

メルボルン出発からゴールまでのコース図:ダットサン参加の時は1周1万6000㎞だった。

また、最高速度時速95㎞ほどのダットサンをチューニングしたとこで、時速100㎞ちょいくらいなものだろう。一方、外国勢は時速150㎞以上で悪路を飛び跳ねながら快走する。が、サスが壊れ、飛び出すカンガルーに衝突、コースアウトで岩や木に衝突でリタイア続出。結局、出場67台中、完走34台というのが最終成績だった。

疾走する外国勢に追い越され、引き離されてダットサンのドライバーは悔しかったろうが、オトッツァンは「ウサギとカメみたいなもんだよ」と笑っていた。「完走だけはしてくれよ」とゴールで祈っているところに、我がダットサンが走り込んできたときの気分は「やったーッ」と天にも昇る心地だったそうだ。

結果は予想外…富士号クラス優勝、桜号4位、総合24位。それをロイター通信が「日本車が海外ラリーで初優勝」と発信して、翌日には世界の自動車マニアがダットサンと日産の名を知ることになり、片山さんの目論見は成功した。

豪州ラリー出発壮行会の写真:前列左2人目が難波靖治/壮行会→帰国→歓迎会で活躍したNDC=日本ダットサンクラブの栄誉礼は並んだ会員がダットサン始動用クランク棒を掲げたアーチ/帰国ドライバー達もそれをくぐった。

さて、ラリーが終わり、苦労した連中にご苦労さん会をとレストランを予約するも、選手は帰国せよとの指示で連中を送り出し、残務整理を終わって帰国したら「俺の椅子に労働組合幹部が座っていたよ」…話しは笑いながらだった、心中は煮えくりかえっていたのでは。

とうとう日産の片山ボイコットが、あからさまになりだしたのである。本来なら豪州ラリー優勝は大金星。その監督だから凱旋将軍のような出迎えというのが常識なのに…いよいよ会社上層部からの無視、労働組合の片山ボイコットが表面化した。過去の実績を踏まえても部長待遇が常識、なのに課長の席まで失ったのである。

優勝のダットサン210富士号/日産蔵:ドライバー・難波靖治&奥山一明。

一方、帰国したドライバーの歓迎行事を全国的に開催した日産は、ダットサンの優勝を宣伝に有効活用した。ここにきて、いつも穏やか、笑い顔を絶やさぬオトッツァンもさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、まじめに進退を考え始めたという。

それを察したのかどうか、原科恭一専務がアメリカ行きを薦めた。日産コンツェルンの源流戸畑鋳物に入社、鮎川子飼いの原科専務だから、よく知る片山豊に助け船を出したのだろう。

一方会社側は、日本車など相手にされない米国市場なら成績上がらず、勝手に辞めてくれるだろうとの腹づもりだったのだと思う。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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