タッカーとは不愉快な車である…フランシス・コッポラとジョージ・ルーカスがコンビの88年作{タッカー}の日本公開があったが取材で駄目…招待状は長男へ…帰宅した長男が「面白かった」を連発するので不愉快きわまりないのである。
それから10年ほどが経ち、TV放映があるというので、しめた録画と思ったらVTRが故障で、さらに不愉快が倍加した。
51台ほどしか世に出なかったから、幻の車と呼ばれているタッカーは、今なら常識の安全対策も、30年ほど前では突拍子もない装備で、それがテンコ盛りで話題を呼んだ車だった。
その進みすぎた技術が、災難を呼び込むことになるのだが。
とりあえずタッカーの諸元だが、全長5475㎜全幅2057㎜全高1578㎜、WB3235㎜。車重1527kg。軍用ヘリのアルミ製空冷エンジンを水冷にした、水平対向六気筒OHV・5478cc・166馬力を後部に搭載の後輪駆動方式で、変速機はタッカーマチック型AT。
当時アメリカ製乗用車で四輪独立懸架は珍しく・ディスクブレーキは世界的にまだ斬新機構だった。6Vが全盛時代の24Vバッテリーは丈夫さと長寿命を強調していた。
タイヤが付いたトーピードー/魚型水雷を名乗る流線型の四ドア(観音開き)ファストバックの空気抵抗係数0.30は、当時では飛び抜けてハイレベル。RR方式ならではの前後荷重配分50対50と低重心で、操安性の高さと安全性も自慢した。
加速性能も良く、ゼロ100㎞10.0秒、最高速度192㎞、燃費8.4km/ℓ、どれもが当時の対アメ車を凌ぐ数値だった。ちなみに192㎞は、同年登場の名スポーツカー、ジャガーXK-120と同等である。
優れた自動車セールスマンだったタッカーは、優れた技術者、優れたデザイナーと三拍子そろった人物で、戦争中は装甲車などの兵器に腕を振るい、開発した旋回機銃は爆撃機B24やB29に搭載、活躍というから、対日本人には嫌な奴ということになる。
WWⅡが終わり、兵器開発から解放されたタッカーの次の目標が、自動車造り…終戦後、老舗メーカーは戦前型で生産再開だから、戦中の技術進歩を取り込み、進歩的スタイリングに安全性を盛り込み、一時代進んだ乗用車で市場への切り込みを図ったのである。
47年、発表のプロトタイプは、先進技術と安全{12項目}が注目された①四輪独立懸架②ディスクブレーキ③インパネにクラッシュパッド④衝突時外に脱落するフロントウインドー⑤ペリメーターフレーム+モノコックでの高剛性安全ボディー⑥ボンネット上に速度計で視線移動減少⑦ハンドルと連動するヘッドライト⑧霧でも見やすいヘッドライト⑨前席シートベルト⑩ワーニングランプ接地、そして⑫助手席前方に大きな空間/グローブボックスは左ドア。
その大きな空間は、衝突すると助手席搭乗者がその空間に押し込まれて、窓に突っ込んだり、ダッシュボードに頭をたたきつけたりを防止するという優れたアイディアだった。グローブボックスはドアにポケットを。
ついでにシートベルトという案は「危険な車」と連想させるのではと、中止した。もっとも発売モデルに全てが実施されたわけではなく、実現しなかった部分もあるが、いずれにしても、タッカーは世界一安全な車を目指したのである。
とにかく当時の世界中の乗用車には無い安全性をテンコ盛りにした乗用車だった。もっとも、それが後に災難を受ける一因になったとも考えられる…{出る釘は打たれる}だったのである。
ちなみに、同じ頃、キャデラックでもブレーキはドラムで、後輪はリーフスプリングのリジッドアクスルで、大衆車フォードは、前輪でさえリーフスプリングの時代だった。
タッカーの開発者は、プレストン・トーマス・タッカー。戦前はスチュードベイカーやダッジの販売で名を知られたセールスマンで、後に高級車オーバーンやコードの開発で腕を振るった人物。
また35年には、フォードのインディーカーを開発、37年には陸軍の高速斥候車の開発と、いうなればアメリカのポルシェとも云える人物だったのである。
ちなみにタッカーが構想を発表した47年の日本と云えば、GHQの乗用車生産再開許可を得て、ダットサンDA、たま電気自動車、トヨペットSAが誕生…三菱シルバーピジョンに続き富士ラビットの登場でスクーター時代の幕が開く一方で、ホンダA型補助エンジン登場で、エンジン付自転車時代の幕も開いた頃だった。