【車屋四六】スワローからSSカー社に

コラム・特集 車屋四六

サイドカーから大衆車のコーチビルドへと、着々成功しながらステップアップするライオンズ青年の次の目標は、自前の四輪乗用車の開発だった。

1931年ロンドンの自動車ショーで、一台の高級車が脚光を浴びていた…SS1と名付けられた車の長いボンネットとキャビンの比率は1対1、正に高級車の黄金比で仕立てられていた。

1350㎜という低い車高はスポーティーで、ツーシーターのキャビンはレザールーフにランドウジョイントが光り、センターロックのワイヤーホイール、それは1000ポンドもする高級車そのものだったのである。

が、近寄って値段を見ると、誰もがビックリ仰天、高級車半値の{310ポンド}…たった310ポンドは誰もが目を疑う値段だった。
が、やがて内容が判りはじめると「見かけ倒し」と嘲笑したのは、ジャーナリスト達だった。

長いボンネットの中には直列四気筒、わずか2054cc/43馬力しかない貧弱なエンジンが鎮座していた。当然のように、走れば、いくら尻に鞭打っても100㎞が出るか出ないか。

SS1が登場した昭和6年、三つの日本初が①横浜フェリス和英女学校卒本山英子が東京航空輸送会社日本初エアガール(スチュワーデス)に/②佐藤輝夫27才・鈴鹿上空で日本航空旅客機から日本初飛び降り自殺③世界的名機フォッカー三発を中島飛行機製ジュピター420馬力でライセンス生産・国産初旅客機誕生。

SS1を売りだすと市場に異変が起きた…{見かけ倒し}の高級車もどきを、大衆は拍手をもって迎えたのだ。
「スピードなんか出なくても」と、大衆は高級車の気分を楽しんだのである。

サイドカーから大衆車のコーチビルド、そして自前の高級車もどきのSS1。どれもライオンズの読みが的中して順風満満のスワロー&コーチビルディング社は、33年に社名変更…SSカー・カンパニーになる。

35年、車の名を{SSジャガー}に改めるが、36年にSS100を発表する。その100は100マイル(160㎞)を表すもので、ここでジャガーは見せかけではなく、本物の高性能スポーツカーをカタログに加えたのである。

マカオGPクラシックレース出場のSS100:ボンネット先端にジャガーの姿が

WWⅡ中は軍需生産にシフト、そして終戦。英国は戦勝国だが、莫大な戦費消費と爆撃からの復興。いずれにしても外貨を稼がねば、ということで輸出奨励策を実施、自動車産業は優遇産業のトップ扱いになる。

{機を見るに敏}なライオンズのこと、見逃すことなくこれに乗ずる。終戦の45年ジャガー社と社名変更して、戦前型で生産再開するが、それをベースにMK-Vを開発、輸出に拍車を掛ける。

次ぎに先読みの名手ライオンズが打った手が、またもや高嶺の花を地に降ろすというやつで…それまで高級車かレーシングカーだけのものだったDOHCの廉価版開発を目論んだ。

で、直六DOHC/ツインカムの開発に成功すると先ずMK-Vに搭載。次ぎに登場するのが近未来的姿のスポーツカーXK-120。次いでMK-Ⅶに搭載、アメリカ市場を席巻するのである。

ジャガーMK-V:直六3.5ℓツインカム160馬力搭載/ドイツの博物館で