東名高速が未だない頃、東京から東海道への道筋は、日本橋起点で品川→横浜と行くのが第一京浜国道だが、昭和20/30年代、トラックが多くなり、乗用車族は五反田から横浜という第二京浜国道を走るようになった。(♪夜霧の第二国道/フランク永井/昭和31年)
昭和20年代、第二京浜には信号がなかった。ロータリー式交差点で、時計回りに進入→脱出。幹線国道なのに、戦前の舗装は破れ凸凹で、走れば砂埃があがった。
五反田から多摩川を渡り、鶴見あたりで出会う通称{メガネ橋}は、行きは{サァこれから長旅の始まり}、帰りには{あと一息で東京}と疲れた体に鞭打った。そんな思いを何度も繰り返したから、ひときわ思いで深い風景である。
原稿を書くにあたり、名前が気になり調べたが、手持ちの地図にはなく、ネットで調べたら{響き橋}だと、50数年ぶりに知って、胸のわだかまりが解けて、ほっとした。
むかし車が途絶えた時に手を打てば、美しく反響したのかも。
東名高速などなかった頃は、飽きるほど見上げた橋も、長いこととんとご無沙汰だから、とても懐かしい。
その橋の下に写るフロントガラスはダットサンDC-3型スポーツ。橋の上はオーナーの佐藤健司/本業浅草の老舗玩具屋だが我々同様のジャーナリスト稼業。SCCJ創立メンバーで親友だった。
もう一枚、江ノ島バックの人物は金子昭三/新聞社出身、自動車ジャーナリストの草分け的人物でゴルフ仲間だった。
DC-3といっても有名なダグラスDC3型旅客機とは無縁で「日本のスポーツカー」と日産が自慢した車だが「私が居なければDC-3はなかった」述懐するのは、昭和10年日産入社の片山豊。
片山さんは宣伝の名手で「儲からなくていい車屋にはスポーツカーが必要」が持論。豪州ラリーのクラス優勝でダットサンの名を世界に知らしめ、アメリカ日産社長時代にはダットサン240Zを100万台も売り、アメリカ自動車殿堂入りした人物でもある。
が、実は戦後、会社にスポーツカーを提案したが没。で、片山さんは、ダットサントラックのシャシーで下請けに造らせたのがDC-3というのが真相で、世に出たのが昭和22年/1947年のこと。
DC-3は全長3510㎜、全幅1360㎜・直四サイドバルブ860ccで20馬力。外車で育った人が乗れば「加速が悪いスピードが出ない」とけなしたが、意外に人気があった。
剣道の面のようなラジェーターグリル、泥よけに砲弾型のヘッドランプ、そしてシルエットが、日本人憧れの英国製スポーツカー、MG-TDの姿に似ていたからかもしれない。
その値段が83.5万円では、庶民には高嶺の花で{絵に描いた餅}だった。それは当時日本一高い土地と云われた、銀座四丁目の一坪が買える値段だった。ちなみに封切り映画館入場料100円、新聞購読料一ヶ月280円の頃である。