金鳥の“日本の夏”に美空ひばりが、レナウンの♪イエイエ♪を首里エイ子が、坊主頭の可愛い坊やが「おかあさ~ん」と叫ぶ味噌のハナマルキ、そんなCMがTVに流れていた1967年、トヨタのフラグシップカーのクラウンがフルモデルチェンジで三代目へ。
1967年と云えば昭和42年。その頃の日本は敗戦の貧困から立ち直り、明るい将来に向けて走り始めた頃。そんな時代を反映したのだろう、新しいクラウンにオーナーDXというグレードが登場した。
それまでのクラウンは官公庁御用達車だったが「オーナードライバーもどうぞ」というのである。ちなみに最上級スーパーDX112万円。大学を出ても2万円チョットという時代だから、月給取りでは、おいそれとはオーナーになれる時代ではなかったが。
「オーナードライバーは裕福だから外車ばかり・国産車なんか買わないよ」と笑ったが、TVのブラウン管の中で、白いクラウンと俳優山村聡の上品なCMが功を奏したのか、クラウンオーナーが生まれ始めたので、我々驚いたものである。
これが日本中津々浦々、後々まで尾を曳いてトヨタを助けた“白いクラウン”という名コピーの始まりだった。
調子に乗ったトヨタは、パーソナルユース狙いの車造りに力を入れる。三代目が生まれて一年が経った頃の1968年10月、120万円という高額車、クラウン・ハードトップSLがデビューする。
日本自動車産業が、5ナンバー枠の中で育てた日本的フルサイズカーのクラウンハードトップは、本格的オーナードライバー向け最上の高級車登場だった。
“のど元過ぎれば熱さを忘れ”と昔の人は云ったが、貧乏から豊になり始めた日本経済で、大衆も買えるようになったTVはカラーになり、日立はドイツ製飛行船で“キドカラー”の宣伝を。
CMはスケールを拡大し、オーケストラ指揮者の山本直純などは「大きいことは良いことだ」とブラウンから叫んでいた。
ちなみにドイツ飛行船のエンジンは、ポルシェの空冷六気筒。
「大切なオーナーを大切にと」トヨタは、業界ではいち早く、1969年4月から、クラウンにシートベルトとヘッドレストを装備した。同じ69年に、流行語にもなった“愛のスカイライン”が登場。
「丸井は全部駅のそば」のCMを筆頭に、スーパーマーケットが身近になったのは、何でも気軽に買って捨てる時代の始まりでもあった。
とにかく物あまり時代、浪費時代の1970年代に突入する直前、CMは過激さを増して、「Ohモーレツ!!」丸善石油の小川ローザのパンツ丸見えなどは、一昔前のTVでは発禁物だった。
また「ハッパフミフミスラリベチ」訳のわからぬ大橋巨泉のCMはパイロット万年筆で、これも話題を呼んだ有名なCMだった。
それまで我々が考えもしなかった日本の高級車を個人が買う時代を作り上げたクラウンは、1972年2月に四代目へとフルモデルチェンジで更に進化を続ける。
急角度の右肩上がりで上昇を続ける日本経済を反映するCM。
1971年にはドリンク飲料グロモントで「頑張らなくっちゃ」と発破を掛ける一方で「ノンビリ行こう」とモービル石油は牽制する。
そして一世風靡の流行語が花王石鹸の「リツコさん」。
このCMから日本中がボーリングブームに沸き、当のリツコさん=中山律子は、女子プロボーラーの大スターとして、ボーリングブームを牽引したのである。