一緒に語るべき問題ではないが、中国で文化革命の風が吹き荒れた1966年/昭41、日本の自動車界にも革命的出来事が。
それはサニーとカローラの登場である。
そろそろ敗戦の後遺症から脱出した日本は、少し豊になった懐で、べらぼうな入場料を払った若者達が、武道館のビートルズ公演を満員にして後の世の語り草となった頃である。
いずれにしても、二車の登場で、大衆車時代の幕が開いた。一部金満家だけのマイカーが、サラリーマンにも手に出せるようになったのだから、こいつは革命的出来事と云っても過言ではなかろう。
が、この日本二大メーカーの新鋭二車の対決は、先に登場したサニーが負けて、後から生まれたカローラに軍配が上がった。
「論より証拠」とは良く云ったもので、先に生まれたサニーの、鰻登りの人気も、7ヶ月後登場のカローラに追い越された。
サニーの開発コンセプトは、ブルーバードをスケールダウンした安価優先で、これから育つであろう、サラリーマンや若者ユーザーの嗜好を理解していなかったことになる。
例えば、鈴鹿サーキットの登場で、既に車のスポーツ熱は点火済みだから、カローラのフロアシフトはスポーティーで、サニーのコラムシフトは時代遅れという感じである。
が、WWⅡ以前、乗用車のほとんどはフロアシフトだったが、戦後大人気のアメ車全部がコラムシフトだから、発展途上国だった日本車もコラムに、これが斬新だったのである。
だからサニーも、成功作ブルーバード同様フロアを踏襲したのだ。
ユーザーニーズを読み切り「プラス100ccの余裕」のCMは、2.2万円高にもかかわらず割安感を生み、カローラは販売首位の座を奪った。が、破れたサニーも月販1万台は日産のドル箱的存在だった。
反省した日産は即座に手を打ち、67年4月、コラム三速はフロア四速に。更にクラス初の3ATを登場させる。そして反省の第二彈が、68年登場のツードアのファストバッククーペだった。 このクーペは、スポーティーな姿ばかりでなく、回転計を備えた三連メーターと三本スポークのステアリングがスポーティー。
こいつは若者とり、安い値段のスポーツカーの登場だった。
三車種の価格構成は、2ドア46万円、4ドア48.5万円、クーペ50万円。目論見通りクーペは若者達の心をとらえて人気者になり、その波及効果で2,3ドアも売り上げが伸びるというおまけが付いたのである。
搭載エンジンA-10型は共通でも、クーペは圧縮比を8.5から9に、出力は55馬力から60馬力へ上昇。最高速度も135㎞から140㎞に、ゼロ400も20.6秒から18.4秒へと向上する。
そしてサーキットの常連になり活躍する。当時日産のエンジンはトヨタより良く回ると、評判が良かった。
サニーが登場した頃、もう日本の戦後は彼方に去り、人呼んで“昭和元禄”各分野に贅沢嗜好が芽生え始めていた。
東京∽厚木、富士∽静岡、岡崎∽小牧と、部分的だが東名の開通も相次いだ。
王貞治がホームラン55本。萩本欽一の“コント55号”の名前はそれにあやかったもの。お昼のワイドショーには青島幸夫東京都知事が、横山ノック大阪府知事も現役芸能人として人気者だった。
サニーは、そんな時代背景の中に生まれ育っていったのである。