【車屋四六】スズキのシクロモーター

コラム・特集 車屋四六

写真は20年ほど前ラスベガスのインペリアル自動車博物館で、大型車の間にチッポケなモペットを見つけ、とても懐かしかった。…プラカードに1950年型WHIZZER199cc(製造期間47~54)。

手元に資料がないので、何処製か判らないがドイツ製だろうか。またサドル下に、赤地に白抜き十字のマークがあったからスイスかデンマーク製かもしれない。
(ヴィンテージ・ハーレーに憧れた同名バイクが現在アメリカで生産されているようだが年代からして展示モデルとは違うようだ)

50年と云えばWWⅡ終戦後5年目。当時日本で最高の娯楽は映画鑑賞。で、得意先日本市場の人気俳優をハリウッドが調べたら、何とトップが高峰秀子、二番ゲイリークーパー、イングリットバーグマン、原節子、木暮実千代、長谷川一夫、三船敏郎、高峰三枝子、ボブホープ、上原謙の順。
当時を知る私には、日本人俳優の多さが意外である。外国映画ばかりで、まるで日本映画は蚊帳の外だったからだ。

エンジンを付けた自転車は、WWⅡ戦後の日本でも沢山走っていたので懐かしんだのだ。ヨーロッパではシクロモーターと呼び、今でも盛んに走っているが。

日本のシクロモーターで憶えているのは、ブリジストン、トヨモーター、ホンダ、ビスモーター、みずほ、ハヤブサ号/伊藤機関、パピー号/トーハツ、そしてスズキモペットなど。
最初は自転車にエンジンを後付けしたもので、はやり始めるとフレームを強化したエンジン付き自転車が多数登場する。中には、初めから荷物運搬を念頭の強化フレーム型もあった。

スズキのシクロモーター・パワーフリー号が発売された52年は、戦中から続いたガソリン統制が撤廃されて、自由販売が出来るようになった年だった。

普通の自転車にエンジンを取り付けたスズキ・パワーフリー号

パワーフリー36ccが開発された動機は、後に社長になる鈴木俊三取締役の釣り好きが、そもそもの始まり。
冬、遠州の空っ風の中を自転車で走るのがつらかった。で、早速試作した車は評判が良く、商品化したものだった。

それが発売された52年、道交法改正で、4サイクル90cc、2サイクル60ccが無試験になり、早速、60ccのダイヤモンドフリーを開発発売したのが53年3月だった。

力強くなったエンジンは単体で3.8万円と高額だが、評判良く当初月販4000台が、年末には6000台と好調に売り上げを伸ばす。
当時の大卒初任給は約6000円、自転車1万5000円前後。

また人気上昇を助けた一因に、富士登山レース優勝という助け船もあった。また8月には、乗鞍岳登頂に成功、高性能と信頼性をアピールするが、更に念押しのトライアルに成功する。
それは三台揃って日本縦断走行の完走。10月札幌出発、鹿児島まで3000㎞を、18日間、93時間21分で走破したものである。
誰もが信頼性に不安を持つ時代には打って付けのPR効果だった。

三台のダイアモンドフリー号が全国縦断に出発。写真では見えないがペダルの付いた自転車で、前方三角のガードパイプは足置きにもなる。当時はヘルメットなどなかった

さて毎度の脱線話しだが、有楽町の毎日新聞社の側にオリオン座とスバル座、二軒の洋画封切館があった。木造二階建のスバル座から出火、全焼したのがダイヤモンドフリー誕生の53年だった。
その火事、出火直前に爆発音があったのに、観客は気づかず?映画を楽しんでいた。上映中の映画が“宇宙大戦争”というSFものというのがまずかった。
映画クライマックスの原爆投下と火事の爆発音が偶然シンクロしたから、観客は驚かない。…あわてて逃げだしたのは、本物の煙が吹き出してからからだった。
もし火事が二日前だったら私も居たので、胸を撫で下ろす反面、恐いもの見たさということで残念がったものである。