【車屋四六】浅間火山レースとは

コラム・特集 車屋四六

日本は世界有数のオートバイ生産国だが、メーカーはホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキの四社のみで、ここまで来るのに多くのメーカーが消えていった。日本でオートバイメーカーの数が最大だったのは1953年(昭和28年)頃で、正確には判らないが200社ぐらいはあったろう。

日本が敗戦からの復興期、自転車の次ぎに増え始めたのがオートバイとスクーターだが、やがて過当競争で、町工場的工場は続々と脱落していった。

消えた車の大半は大したものではなかったが、エーブスター、ポインター、DSK、ライラック、ホスク、モナーク、アサヒなど、いまだに記憶に残る良品も沢山あった。

世界のサーキットを股に掛けて活躍したトーハツも消えたが、そのレースチームを率いて活躍したのが皆さんご存じの鈴木五郎。また、戦前から大型オートバイの老舗、陸王、メグロ、キャブトンなどが生き残れなかったのも残念だった。

淘汰の合戦が過ぎて、生き残った四社総てが戦後派というのも興味ある事実だ。だが、それはそれとして、自動車同様、オートバイが量産されるようになると、当然のようにレースが始まるのは世の常。

戦後日本初本格的レースは、1953年毎日新聞社主催の第一回富士登山レースだが、こいつは四回続いて幕を閉じた。そして次ぎに登場するのが、後世に語り継がれる浅間火山レース、浅間高原レースとも呼ぶ大会だった。

浅間レースの第一回は1956年で、57年、59年と計三回開催された。

ちなみに、日本初と云えるかどうか、富士登山レースに遡ること四ヶ月、名古屋タイムス主催の“全日本選抜優良オートバイ旅行賞パレード”というのがあり、19社57台が参加したことを参考迄に。

奇妙なタイトル名と思うだろうが、旅行賞とは、当時世界最高のレースだったマン島のTTレースのTTを直訳したから。TT=ツーリスト・トロフィー、直訳すれば旅行者賞、お粗末な英語力まる出し、今なら噴飯物である。

モナーク工業:モナーク浅間仕様 150cc 1955

浅間レースは若者から中年まで人気高騰したが、それ以上に熱中したのがメーカーだった。それはレースの成績がそのまま売り上げに繋がったからである。ちなみに生き残った四社は、レースの常連であり、常勝車を生み出した会社達である。

浅間火山レースと呼ぶように、会場は浅間山麓高原の小型自動車のテストコースがベースになっていた。私が見に行ったのは1959年8月24日のこと。

三日前からレースは始まっていたが、その日がクライマックス。混雑いちじるしく、何時もなら千ヶ滝から30分の道のりを、3時間もかかってしまった。

オートバイと自動車とバスで大混雑。ようやく付いた駐車場には、観光バス数十台、乗用車が100台ほど、オートバイにいたっては1000台以上だったと聞く。

前の二回はヤマハが優勢だったが、第三回はホンダが優勢で、結果反映の販売で、ホンダドリームやスーパーカブが売り上げを伸ばし、ヒット商品の座を得たようだった。

ヤマハの参戦車両

このときベンリーで優勝したのが北野元。後の四輪グランプリで日産ファクトリーの一員として活躍することになる。

この日の結果を参考迄に。ウルトラライト125cc/ベンリーSS平均時速93.4km/h。クラブマン125cc/ベンリーSS93.7km/h。クラブマン250cc/ドリームSS104.1km/h。国際レース/BSA650cc103km/h。

“強者どもが夢のあと”後年、レース場跡に行ってみたが、砕けた火山礫の凸凹道をよくぞ走ったものと改めて感激した。が、これで日本のオートバイ造りの技術が大幅に進歩、ドライバー達も世界に羽ばたく出発点になったのだから、大いなるレースだったのだ。