【車屋四六】アラードは力持ち

コラム・特集 車屋四六

近頃アラードなど知っている人は滅多にいない。

イギリスのスポーツカーで、K1/1946~49年、K2/1950~52年、K3/1952~54年、J2/1950~51年、J2K/1952~54年とシリーズは細分化しているが、姿は大同小異である。

いずれにしてもバックヤードビルダー的少量生産車だから珍しい車だが、なんと日本を走っていたことがあるので懐かしい。残念ながらオーナーの米軍人と話してないので、年式もタイプも判らない。

在日米軍軍人所有のアラードでパッカードエンジン搭載車。昭和30年頃

ただ、SCCJ(日本スポーツカークラブ)の古いメンバー、浅草の佐藤健司によれば、搭載エンジンはパッカードだったそうだ。

アラードの特徴は、何種類かの量産市販車のエンジンを客が好みで選び搭載できること。こいつはロータス7などと同じで、イギリススポーツカーが良くとる手段である。

写真はJ2で、搭載エンジンはキャデラックだが、J2にはフォードV8-100馬力、リンカーンV12-125馬力なども用意されていた。

ちなみにキャデラックだと、V8OHV 5296cc 160馬力で、最高速度は200粁近かったようだ。

このタイプのスリーサイズは、ほぼ全長3700㎜、ホイールベース2500㎜、ボックス構造フレームとアルミボディーのお陰で、V8を搭載にしても、1100kgと軽量仕上げに成功しているので、猛烈な加速感を満喫できただろうと思われる。

大馬力と大トルクで競争するために生まれてきたようなスポーツカーは、コブラと同じようにアメリカで人気者になった。

アラードの生産者、英国人シドニー・アラードが生まれたのは、1910年(明治43年)。明治神宮に隣接の代々木練兵場で、徳川大尉のフランス製ファルマン機と日野大尉のドイツ製グラーデ機が、日本初の飛行に成功した年でもある。

シドニーは長じてレーシングドライバーとして活躍した後、30年に自動車販売を始め、念願のスポーツカー造りでアラードを完成発表したのが1937年(昭和12)だった。

かつて日本の最高額紙幣の顔は(100円→1000円→5000円→1万円)と聖徳太子だった。その太子が百円札での初登場が1930年。豊田佐吉が死去し、金解禁で20円金貨が発行された昭和5年だ。

1937年日本は、盧溝橋事件から日中戦争に突入。統制を受けるようになった映画は国威高揚に傾き、日本は軍国主義に染まっていく。ちなみに封切り映画館の入場料は50銭。

参考までに、昭和8年生まれの私が幼少の頃、50銭銀貨は、正月や誕生日でも滅多に手に入ることがない、子供にとっては高額コインだった。

アラードが生産を終わり市場から姿を消したのは60年(昭35)。日本ではNHKとNTVでカラーTV放送が始まった。話題は、日曜夜11時頃に始まる“ピンクムードショー”で、ちらりと見えるオッパイで、人気急上昇。

それが楽しみという人とは裏腹に、けしからんという真面目人間、変人?からの苦情が殺到して、結果的に、TVのオッパイがアラードと共に消えてしまったのは、返す返すも残念な出来事であった。