「お湯を掛けて三分間」革命的インスタント食品誕生は、昭和33年=1958年のこと。これが世界的商品になるとは誰も思わなかったろう。…これが即席チキンラーメンの誕生だった。
透明な袋に詰めた揚げ麺をどんぶりに入れ、湯を注ぐだけという予想外な新製品。…今なら「不味い」の一言だろうが、飽食時代前の日本では人気者になり、アッという間に全国制覇した。
そんな1958年に誕生したのがスバル360だった。
松下幸之助、横綱吉葉山、売れっ子漫画家佃公彦、つながりは無さそうだが共通点がある。当時としては外車が買える裕福な人達だが、スバル360のオーナーと云うことでの共通点である。
ちなみにアメリカを除き世界中が復興期にあった第二次世界大戦後に登場した軽自動車(バブルカー)は、戦争の傷跡が癒えるにつれ姿を消していった中、日本の軽自動車だけが、しぶとく生き残った。
日本で初期の軽と云えば、オートサンダル、フライングフェザーなどだが、どれも二座席。四座席の最初は1955年登場のスズライトフロンテだが、後席が狭かった。
だが、三年後に登場のスバル360は、大人四人が座れ、そこそこに走れ燃費が安いので人気上昇。…結果、スバルは生き残り、日本の軽市場が育つ原動力になったことに疑う余地はない。
素晴らしい軽・スバル360の生みの親を百瀬晋六と云う。…信州塩尻の造り酒屋に生まれた百瀬は根っからの自動車屋ではない。自動車業界に画期的進歩をもたらす原動力となる百瀬も、トヨタの長谷川龍雄と同じく、敗戦で翼を失った飛行機屋だった。
百瀬は、東京帝国大学、通称帝大を卒業して就職したのが、日本最大の飛行機メーカーの中島飛行機だった。そこには後にプリンス自動車育ての親となる中川良一も居た。
中川の開発した栄(さかえ)そして誉(ほまれ)を積んだ、ゼロ戦や疾風、紫電改は、米英空軍を相手に猛威を振るった。彼は世界的航空機エンジンの権威、そんな人達に囲まれて百瀬は育った。
その誉れに、ターボチャージャーの組み込み作業をしたのが、百瀬の飛行機屋最後の仕事となった。…そして45年8月15日敗戦。
さて翼を失った百瀬は、自動車屋に転身するわけだが、スバル360が四輪乗用車開発の初仕事ではなかった。
それはクラウンとほぼ同サイズの1500cc乗用車で、クラウンより一年ほど前に開発完了、量産試作車14台が完成登録して、タクシー会社などで実用走行実験も始めていた。
その中の数台は社用車となり、当時丸の内に在った富士重工業本社にも配備されたから、東京在住の私はよく見掛けたし、走る姿にも出会ったものである。
その車の名は“スバル1500”だが、事情により量産されず“幻のP1”とも呼ばれている。P1は開発コードネームで、P=パセンジャー=乗用車、そして開発番号1ということ。
P1の没は、中島飛行機がGHQの財閥解体令で細分化され、その中の七社合併で生まれたのが新生富士重工業(株)だが、合併したての会社に、中型乗用車の生産設備、販売網整備の資金繰りがつかないというのが、没の理由だった。
重役に呼び出された百瀬の次の課題は軽自動車の開発。当時会社は一世風靡のスクーターラビット全盛期で、その設備と販売網を生かせば、少ない投資で済むという判断だったのだろう。
その時期は、通産省の国民車構想より早かった。軽に目を付けたのは、値段が安い、運転免許取得簡単、無車検、自動車税年間1500円、もちろん保険も安く、貧しい日本に最適と考えたようだ。
先ずエンジンは、ラビットの設備が生かせることでツーサイクルと決定。その出力予測15馬力では、目標の時速85km達成には、よほどの軽量仕上げが必要だった。
そこで威力を発揮したのが元飛行機屋の知恵とノウハウ。部品ごとの軽量コンパクト化、ボディーはモノコック構造の卵形。こいつは軽くて頑丈で空気抵抗も低くなった。
特に、高価なFRPルーフ、アクリル製後窓、アルミ製部品、等々は当時の自動車屋には未経験ゾーンで、考えてもみない新技術、材料のオンパレードだった。
紆余曲折、試行錯誤の結果、試作車が完成したが、次の課題は走行実験。実用試験の目標は、四人乗りアクセル全開で赤城山の登頂に成功することだった。
だが、エンジンが焼き付いたりで連日工場に帰ってくる。が、ついに念願成就、とうとう登り切り、頂上で喜びの万歳三唱を叫んだら、1957年の夏になっていた。
軽の名車スバル360は、1958年3月日本橋白木屋百貨店(後の日本橋東急→コレド日本橋)で、三日間展示公開されたあと発売されると、人気は一気に上昇した。