【車屋四六】第427話 パブリカと長谷川龍雄

コラム・特集 車屋四六

古今東西、どの時代にも忘れてはならない物/者がある。自動車も同様。例えば1955年(昭和30)にトヨペットクラウンが誕生した時「日本の乗用車が世界に追いついた」と喜んだ。

1966年にサニーとカローラが登場した時には「日本に大衆車時代がやってくる」と期待に胸をふくらませた。だが、印象的なクラウンとカローラの間に、トヨタとしてはわすれてはならない貴重な一台が存在する。それは大衆車カローラ誕生前の前奏曲だと私は思っている。

それは、1960年第七回全日本自動車ショーにデビューした。

当時乗用車なんてものは大衆には手が届かぬ高嶺の花。なのにその車が注目されたのは「もしかすると手が届くのでは」と大衆勤労者階級の観客が希望を持ったからなのだろう。

その車のペットネームが公募されると、全国から実に108万通の応募が集まった。で、パブリック(大衆)とカー(車)を合成した、パブリカが決定する。

パブリカというと直ぐに引き合いに出される国民車構想だが、藪田東三主査率いるパブリカの開発チームは、構想発表前に既にスタートしていたことを紹介しておく。

パブリカの開発目標は、おうよそモーリスマイナーとルノー4CVとの中間サイズのツードアセダン・空冷二気筒・車重700kg・駆動方式は前輪駆動(FWD)だったが、FWDについては当時の専務だった豊田英二の影響が強かったという。

開発では、先ず空冷エンジンで難航し、更にFWDでは不可欠の等速ジョイントで良品が見当たらず最大の難関となる。

そんな最中の57年、開発主査が藪田から長谷川龍雄に引き継がれる。長谷川はクラウンの開発に関わり「観音開きドアは危険」と反対したことで知られた人物。

引き継いだ長谷川に、空冷エンジンは手慣れたものだった。というのも彼は戦時中の仕事が飛行機屋だったからだ。

550と600で開発中のエンジンは700ccに拡大された「じきに到来するハイウエイ時代に時速100粁で安全巡航するには最大出力の7~8割でなければいけない」が長谷川の理論だった。(この理屈は軽飛行機のレシプロエンジンでは今でも守られている)

次ぎに「駄目な等速ジョイントにこだわるな」と専務が惚れ込んだFWDをあっさりと捨て、オーソドックスなFRに改めてしまった。

東京帝国大学卒後立川飛行機に入社した長谷川の、終戦間際に開発中の戦闘機は、2000馬力級ターボを前後に二基装備、1万米上空を時速750kmの高速で飛び、成層圏から悠々と爆撃するボーイングB29爆撃機をやっつけるはずの高高度戦闘機だった。

だが、残念ながら試験飛行が終戦の日で間に合わなかった。

終戦後の立川飛行機は“たま電気自動車”で稼ぎ、“プリンス号”の富士精密との合併で誕生する、プリンス自動車の源流となる。

飛行機屋長谷川の功績は、飛行機では常識の部品一個一個の重量強度コスト管理にはじまり、完成後の強度重量コスト管理、そして空力など、その後の自動車開発に大きな影響を与える技術を導入したことである。

そしてアルミなどの軽金属やプラスチックなど、それまでの自動車業界では未知の材料の採用なども、長谷川の功績と云えよう。

敗戦で飛行機屋としての職を失ったが、縁あってトヨタに入社したとき、自動車造りのずさんさに呆れたそうだ。で、上記飛行機屋では常識の手法を取り入れ、革新技術に挑戦、飛行機屋としてのノウハウを惜しみなく注いで、トヨタの技術革新を計ったのである。

モーリスマイナー:英国モーリス社でAイシゴニスがミニ開発前に開発したベストセラー大衆車

パブリカが誕生した1957年の同期生と云えば、プリンススカイライン、トヨペットコロナ初代、フジキャビン、ダットサン210型。

市場には軽三輪車が登場し、ヒルマン、オースチン、ルノーなど外国技術導入車が完全国産化を完了した頃である。

クラウンも含めて中型車市場に一人前の顔ぶれが揃う頃を見計らったかのように、閣議は国産車愛用を決定した。

で、大臣や大物政治家、高級官僚の公用車が国産車に替わった。それまでは、ほとんどがキャデラックに始まるアメリカ大型車に占められていた。