初めてミウラと聞いたとき、日本人女性を思い浮かべた。有名なフランス香水、ゲランの“ミツコ”を思いだしたからだ。
残念ながらミウラは日本女性ではなかった。そのミウラに初めて出会ったのは1966年のトリノ自動車ショーで、あまりの美しさに暫くの間立ち止まり眺めていた。
ミウラの初舞台は1965年のトリノショーだが、その時はミドシップレイアウトのシャシーのみ。美しい姿を披露したのが1966年春のジュネーブショー。
1966年は昭和41年、日本ではサニーとカローラが誕生して本格的マイカー時代の到来。スバル1000やマツダルーチェ1500、いすゞベレル、ダイハツフェローが登場した年である。
面白いことにルーチェとミウラには共通点がある。両車共に、スタイリングがベルトーネということ。だが、実際に線を引いたのは、やがて日本車デザインに影響を与えることになる、ベルトーネ工房在籍中のジウジアーロだった。
美しいルーチェは、ベルトーネ工房在籍時代最後の作。ミウラはベルトーネ作と云うが「退社したときに残してきた私のスケッチそっくりだ」とはジウジアーロの言。
ミウラを生産するランボルギーニ社は、最初の作3500GT以来、打倒フェラーリに執念を燃やしていた。
第二次世界大戦が終わって戦場から帰国したランボルギーニは、無一文で始めた農機具製造が当たり、裕福になった彼は何台もスポーツカーを買ったが、気に入った車に出会えなかった。
ある時、ランボルギーニはフ、ェラーリに「問題点について」と会見を申し込んだが梨のつぶて。それがフェラーリを敵視するが発端と云われている。
日本で有名なのはSF的ごつい姿のカウンタックだが、その5年前登場ミウラは、なだらかな流線型が対照的だが、温和しく美しい姿とは裏腹に、性能は当時の世界最高峰だった。
985kgとう軽量仕上げ車体搭載のV12エンジンは、4.0L350馬力で最高速度が293km/h。こいつはライバルのフェラーリ275GTの260km/h、マセラティ・ギブリの280km/hをも上回っていた。
そのV12は、3年前登場の3500GT以来DOHCだが、当時は天下のフェラーリでも未だSOHC、ということで全ての点でフェラーリを上回ることに意欲を燃やしていたことが伺える。
しかし、販売価格では、世界最高のGTを自負し世界も認めるフェラーリより少し安い設定、反面、性能は世界最高という“鬼に金棒的”設定でフェラーリの牙城に戦いを挑んだのである。
ミウラが登場の昭和41年とは、中国で文化大革命が、日本では大学紛争真っ最中。嬉しいことは量産効果でカラーTVが18万円台になって、カラー普及に拍車がかかったこと。
人気は、視聴率50%越えでオ化け番組と云われた“おはなはん”。大河ドラマ“源義経”、長谷川一夫の半七捕物帳、大川橋蔵の銭形平次。ウルトラマン、マグマ大使、淀川長治の洋画解説始まる。
名喜劇役者エノケンが「ウチのテレビにゃ色がない」のCMでカラー化をあおっていた。
さて「欠点がないGTを造りたい・技術的化け物ではなく・難しくなく・当たり前に乗れるGT」というのがランボルギーニが目指すモットーだった。
忘れていた。日本名と勘違いしたミウラは、人名でなく、スペイン産で、最も獰猛な闘牛用の牛の種類名だった。