【車屋四六】ツェッペリンはWWII中も生き残っていた

コラム・特集 車屋四六

昭和4年、1929年に日本の霞ヶ浦に係留されて大騒ぎになったツェッペリンLZ127号は、マイバッハV12気筒550馬力を5基装備。世界一周三週間の旅の途中の来日で、大歓迎を受けた。

この世界一周飛行には、スポンサーが居た。アメリカの新聞王ハーストである。1970年代に、ハースト家の娘パトリシアが“過激派娘”の名で暴れ回った事件を、憶えている人もいるだろう。

飛行船時代に幕を引いたのはヒンデンブルグだった。大西洋を横断して米国レイクハーストに到着。係留作業中に爆発炎上の報道で世界中が大騒ぎ。これで飛行船の定期便事業は幕を閉じる。

このヒンデンブルグはLZ129号機で、ダイムラーベンツV16気筒1200馬力ディーゼル5基仕様。で、ヒンデンブルグが、ツェッペリン型の最後かと思ったら、LZ130号機があった。

世界で始めてレーダーを実戦配備したのはイギリスである。1937年というとWWII開戦直前だが、イギリス軍のレーダーに、東方海上を飛行する、大きな未確認飛行物体が写った。今なら差詰めUFO発見である。

ソレッとばかりに、英空軍最新鋭スピットファイア戦闘機がスクランブルで飛びだした。が、指示地点で発見したのは、のんびりと飛行するLZ130号ツェッペリン二世号だった。

冷戦たけなわの頃、日本海で日本の領空侵犯をするソ連大型機に、自衛隊のジェット戦闘機がスクランブルを掛けていたのと同様に、イギリス軍のレーダー性能とスクランブル体制のチェックで、領空すれすれ、または少し侵犯してデータを収集していたのだ。

WWII中のLZの活躍は聞いていないが、1号も2号も誇り高きドイツの象徴だから、フランクフルトのハンガーで大切に保管されていた。が、敗色濃厚になった1940年、空軍大臣ゲーリングの命令で自爆した。惜しいことをしたものだ。

日本で飛行船といえば、昭和三年だから1928年、イタリーからマイバッハ245馬力2基装備の半硬式飛行船N13号が輸入された。購入の動機は1926年、アムンゼンとノビレが北極横断に成功したノルゲ号に惚れ込んだのである。

有名になったノビレは再度挑戦して遭難する話は知っている人も多いだろう。そしてノビレの救助に向かったアムンゼンが遭難死亡、当のノビレが助かるというおまけが付く。

自動車を運転する身になると、ネズミ取りとは不愉快極まりないが、どうやらイギリスが元祖のようだ。20世紀初めの頃、自動車などを乗り回している連中は、大方が珍し物好きの大金持ちである。

「金持ちからはむしり取れ」という貧乏人根性は今も昔も変わらない、というわけでも無かろうが、警官がストップウオッチを手に物陰に潜むスタイルは、この頃に始まったようだ。

で、道端にキャベツの葉っぱとかポテトの切れ端などを置いて、二点間のタイムを計って速度を算出。日本で最近ストップウォッチは見かけないが、少々進歩の光電管計測は、まさに二点間計測である。近頃ではレーダー計測が主流になっているようだが。

イギリスで、雨の日も風の日もストップウォッチを手に点数を稼いで、1年間で巡査部長から警視に出世したという話を聞いたことがある。で、イギリス最古の自動車専門誌「オートカー」は、毎週ネズミ取りの情報地図を発行していたという。

JAF=日本自動車連盟が生まれたのは、オーナーカーに対する路上サービスが当初の目的だった。が、世界初の自動車クラブ、AA(オートモビル・アソシエイション)がイギリスに誕生した動機は、ネズミ取り対策だったのである。まあこれも路上サービスだが。

AAのメンバーは全て大金持ち。出し合った金で雇った職員が自転車に乗って街を巡回、AAのカーバッジを付けた自動車が来ると「この先八百屋の角にお巡りが隠れています」と教えるサービス機関だったのである。

その頃、イギリスの法律では、公道上を走る自動車の制限速度が時速32km/hだったのだから、いくら初期の自動車だとはいえ、気持ちよく走れば、バッタバッタと捕まるということになる。

さて、自動車の性能と耐久力が年々向上すると、レースが始まり、その規模もエスカレートする。で、馬鹿げた歴史的大レースが二度も開催されたのは御承知の通り。

最初のレースが行われた1907年は明治40年。トヨタ自動車の源流、豊田式織機が設立され、東京自動車製作所の内山駒之助が日本初国産ガソリン自動車タクリー号の開発に成功した年である。

レースは、北京を出発、最終ゴール地点がパリで、1万6000キロという超長丁場だった。が、ちゃんと参加者が居て、5台が北京をスタート、2ヶ月を経て、パリにゴールしたのは、イタリーきっての名家、ボルゲーゼ皇子のイターラ40馬力だった。

大金持ち、大金持ち、としつこいが、さすが大金持ち、時には100人以上の人足を雇い、悪路で立ち往生すれば道を造り、車を担いで、というのだから、大金持ち連発も致し方ない。

馬鹿げたレースの二番目は、1908年開催のニューヨークから2万800キロ離れたゴールがパリというもの。大昔すべての道はローマに通じる、と云われたように、江戸時代の日本では京都、WWII前まで「世界の中心はパリ」がフランス人の概念だったようだ。だから、大レースのゴールは何時もパリなのである。

大金持ち達は大西洋を船で車を運び、ニューヨークを出発→シカゴ→サンフランシスコ→アラスカ→モスクワ→ベルリン→ゴールのパリを目指したのは、7台だった。不可能と思われた大レースだが、168日でパリにゴールしたのはアメリカのトーマスフライアー6気筒60馬力。二位ドイツのプロトス4気筒35馬力、三位イタリーのツスト4気筒35馬力だった。レース中、トーマス、ドディオン、ツストが日本を通過したことが知られている。

ルイ・ヴィトンと呼ぶカバン屋は有名で、世界中で一番買うのが日本人だが、本来はやんごとなき人達の持ち物というのが欧米での常識。が、日本では、女子学生やOLの持ち物化で品格が下がったが、LVにしてみれば格式より利益なのだろう。

そんなLVにトランクを特注して装備したのがフランスのモトブロック車。当時LVは王侯貴族御用達。軽くて丈夫な工具箱が必要、で頭にひらめいたのが、日頃使い慣れたLVだったのだろう。

史上空前の長丁場レース参加のモトブロック:ステップに工具箱と思った時にひらめいたのが日頃愛用のLVに注文することだったのだろう