自動車にガソリンを入れようと給油所に行けば、天井から下がったホース、地面に立ったタワーのホースの蛇口から給油する。
今時の若者達は皆そう思っているようだが、WWⅡ以前と直後の自動車の数が少なかった頃は、そんな大げさな設備はなかった。
写真のようなタンクの上のガラス部に手動ポンプでガソリンを溜めて、自動車に給油というスタイルだった。手動ポンプには、手回しハンドル型、テコ棒形などがあった。いずれにしても人力である。
ガラス容器には目盛りがあり、たぶん5ℓ単位だったろう、客の10ℓとか15ℓとかの注文で、そこまでポンプで揚げてから、コックを開けて注入、ようは重力式給油である。
ポンプは(炭屋)と呼ぶ、炭、薪、練炭、豆炭などを売る燃料商の店先にあった。江戸時代からの燃料に加え、大正頃から需要が増えた新しい燃料ということでガソリンも扱うようになったのだろう。
戦争中「ガソリンは血の一滴」の標語があったように、木炭車の普及で、このようなポンプは燃料商の店先から姿を消したが、戦後、近代型給油車が登場するまで暫くは、再登場していた。
ちなみにガソリンの値段だが、ダットサンや私が生まれた昭和8年/1933年頃は1ℓ=12銭。昭和15年の物価統制開始で22銭という公定価格が決まった。
廃墟の中からの復興が始まっても公定価格は残っていて、昭和25年は1ℓ=23円。実情にそぐわぬガソリンの公定価格が撤廃されたのは昭和27年で、1ℓ=34円に跳ね上がる。
以後、インフレが続く日本経済に比例して、昭和30年37円、35年40円、100円の大台に乗るのが50年だった。
戦後のガソリンは、昭和20年代、30年中頃までの品質は最低だった。オクタン価などというものではなく、水やゴミで走行中にキャブレターのノズルが詰まり、エンスト立往生するなど珍しくもなかった。
またエンジンルーム内にあるガラス容器は、キャブレターに入る前に、ガソリンと水を分離する装置で、時々容器の底に溜まった水を捨てなければならなった。
新聞社などの軽飛行機のガソリンもひどいもので、ドラム缶から手回しポンプでバケツに移してから給油するのだが、そのさい給油孔に差し込む直径40cmほどの漏斗にはセーム革(なめした鹿革)が張ってあった。
セーム革は、ガソリンは抵抗なく通すが、水は通さないという特有の性質を利用したものである。覗いてみると通過するガソリンの中で、水玉がいくつもコロコロと転がっているのが見えた。
余談になるが、写真のポンプの背景に道路標識が写り込んでいる。こいつは、漢字が読めない進駐軍の兵隊のために、日本中に英語の標識が氾濫したのである。
写真のような、STOPサインや、行き先表示はまだしも、日本中の主要道路に英語名を付けてしまった。○○アベニューとか××ストリートというように。
ちなみに、日比谷交差点から築地方面はZアベニュー、神田方面がAアベニュー、昭和通りは10thストリートだった。
重力式給油機が見えなくなったのは昭和30年頃。自家用車がぼつぼつ走りはだし、欧米型給油所がボツボツという時代に替わっていった。
戦後の貧乏から脱出した日本は{神武景気}などと呼ぶ時代で、着る物があれば、食べ物があれば、という時代が去って、庶民は、少しばかりだが贅沢な夢を持ち始めていた。
家庭では電化時代がはじまり、庶民憧れの三種の神器は{電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ}だったが、まだ車は高嶺の花だった。